染野太朗


歩数ゼロの携帯にメール、またメールわたしは今日はじつとしてます

足立晶子「もう七月か」(「短歌往来」2018年9月号)

 


 

「もう七月か」は7首からなる。

 

じつとして「ます」、という現在形(仮にこれを「現在形」と呼ぶけれども、日本語におけるこの基本形は、厳密には「現在」形と呼ぶのは正確ではない、ということも一応断っておきます)はなかなかくせもので、「今日はじっとしているんです」という近い過去からつづく現在の状態を、事実として淡々と述べた宣言のようにも読めるし、メールを受けて「いや、わたしは今日はじっとしているつもりですので」と相手に向けて意思を示した(だからおのずと未来を描いている)返答とも読める。後者で取れば、「携帯」の向こうの人に対するコミュニケーションが、前者の場合よりも輪郭を濃くする。だからこのですます調のかしこまった言い方は、相手ありきのものになり、ユーモアをよりはっきりと伴うように思う。前者で読んだときは、自分の内側に閉じこもっている感じが際立ち、相手のいない内言のようにも読めてくる。ただ、その境界はわりとあいまいで、僕は両方とも意識して違和感なく読んでしまった。

 

そして、そのユーモアを味わえばよいというだけの一首なのかもしれない。

 

ただこの歌で気になったのはそこではなくて、上の句。「歩数ゼロの携帯」というのはもちろん、外出せずにずっと同じところにいるということを、歩数計測機能のついた「携帯」に託して述べたものだろう。外からの連絡がメールによって「携帯」にどんどん届く、というところとかかわらせる形で、自分がまったく動いていないということもあくまで「携帯」の情報によって描いている。つまり、「今日はひとりでいたいけれど誘いのメールは来る」「外出するつもりはないのにメールが来る」「ちょっと怠けていたいのにメールが連続して来る」といったような形では表現されず、あくまで「携帯」に託してその状態が語られるその必然が読み取れる、ということ。すべて「携帯」において語られている。僕はこの歌を一読して、寒々しいというか、なんだか怖いような気持ちになった。じっとして「携帯」の小さな画面を見ている感じ。スマートフォンのことを「携帯」と呼ぶ場合ももちろんあるけれど、だったら音数上「スマホ」と言えばおそらく済むわけだし、「携帯」と言われたら今はだいたいあの、いわゆるガラケーを指すはず。だからこの「ゼロ」を示す画面は、スマホが一般的になった現在においては、やたらと小さく感じられる。あるいはこの歩数はメインの画面ではなく、その画面の裏側についたより小さなサブ画面に表示されているのかもしれない。じっと動かないまま小さな画面に歩数を確認し、メールを確認し、何度かメールが届いても「じつとしてます」と言ってそこを動こうとしない。表示は「ゼロ」のまま。こまかいことを言えば、「携帯」をテーブルに置いたままだから「ゼロ」であるというだけで、本人は家のなかを動き回っているのかもしれないけれど、とにかく表現上はまったく動きがなくて、なんだかやたらと窮屈なのだ。「ゼロ」という数自体も、プラスにもマイナスにも変化の起きない、心身の固定された状態を饒舌なくらいにイメージさせる。「携帯」に届くメールの誘いには乗らないでいるのに、「携帯」の示す「ゼロ」には自らの心身を委ねる。自らの内面と他者という外部、そのどちらに傾いてもそこに「携帯」がある感じ。結局は「携帯」が中心になっていて、「携帯」なんてちっぽけなものに支配されているように見える、とまで言うのだとしたら、「携帯」に意味をもたせすぎる安っぽい社会批評みたいでとても恥ずかしいのだが、でもなんだか、状態や意思がユーモアまで伴いながらそれなりに表出されているのに、ほとんど「携帯」とそれに向けられた視線しか見えてこないこの一首は、やはり寒々しいと思えるのである。その上、この一首にそのユーモアという客観があるのだとしたら、自らの世界が「携帯」のみに集約されていることについてはこの人が気づいていなそうで、その無自覚に僕は危うさを感じてしまう。そこがなんとも怖ろしいのである。

 

終わりに同じ一連から二首。字足らずや助詞のありようそのものが、時空をわずかながらも歪ませているようで、今日の一首とはまたちがった意味でなんだか怖かった。

 

あれが最後の花だつた七月の栴檀伐られ救急車過ぐ
コスモスの六輪咲ける通学路まだ七月を もう七月を/足立晶子