平岡 直子


ママのバラの服のうしろにへびがいた/最近ゆめみのわるいここは

今橋愛『としごのおやこ』(書肆侃侃房:2018年)


 

この歌は分かち書きなので、横書きという不完全な再現にはなりますが、本文中にも再掲しておきます。

ママのバラの服のうしろにへびがいた
最近ゆめみのわるいここは/今橋愛

 

ある種の歌は一首ごとに作者のDNAが含まれていてどの歌を引用してきてもその歌からなにかしらの全体を再現できるけれど、ある種の歌は一首だけでは全体になり得ない。あきらかに後者である歌集からむりやり引き離してきた掲出歌が枯れてしまう前に、短い話をしようと思う。
一首を引用すると、地下茎でつながってるみたいにずるっと一冊まるごと引きずり出すことになる。そういう歌集だった。読みはじめたら止まらないと思う。一首と一首の切れ目が淡く、かといって散文ほど密着させるわけでもなく、適度な握力と適度なスリルで読者を最後まで導くだろう。
この歌集に出てくる歌はどれも似ている。やさしい言葉遣いにやさしい仮名遣いに分かち書き。肩を寄せ合っているからやさしくいられる歌たちだ。それと引き換えに一首が担当する情報量は少なく、一首だけを引用した場合にはその一首を味わうのに最低限必要な前提すらたくさん欠ける。まず、平仮名の多さや分かち書きが目を引くこの文体が、息遣い、口語、定型の三点セットを徹底的に一致させようとする作者の戦略的な選択によることは、歌集の通読を通してある程度まとまった歌数を経験しないと飲み込めないのではないか。そして一首単位でいうなら、掲出歌はある母子が登場人物であること、「最近ゆめみのわるい」ことの遠因と思われる家族の不安定な状況などを歌集全体、あるいは連作から把握しないと読み切れない感じがするけれど、なによりも、「ここ」が子どもの名前であることがこの歌から、そしてこの歌集からは切り離せない。
歌集の序盤にきちんと註として「ここ--こどものなまえ」と書かれているかぎりはここは子どものなまえなのだけど、ここはどうしても「here」でもある。固有名詞という具体性が歌をリアルに感じさせる以上に、作中の主人公は自らの子どもによって「here」をたしかめ、「here」に留められているように、みえる。
バラの服。母親のきれいな服に対する憧憬と疎外感を、幼少時の実体験からというよりは読書経験からわたしは培ってきたような気がする。いいもの、きれいなもの、好きなものをより素敵にみせるもの、よそよそしいもの、自分を置いていくもの、日常への不穏な亀裂。服の柄である植物が服のそとの景色となだらかに融合し、屏風からうっかり虎を出すようにへびを出現させてしまう。不安の象徴、禍々しいもの、でもなぜかバラよりも親しいへび。甘い悪夢だ。そして、「ゆめみのわるい子ども」という甘い暗がりは、後ろ手にへびを隠すバラの服ととても似たものであるように思える。としごのおやこがお互いに同じ種類のゆめを投影する瞬間?
このバラの服は「ママ」に着られているのだろうか。服にトルソーがないと成立しない景色のような気もするし、「バラの服を着たママのうしろに」ではない語順からは独立した服だけが登場しているようにも感じられる。ママの服の裾を握っていたはずが、視線をあげたらそこにいたのは別人だったかのような、空洞だったような、これまた子どもが見がちな悪夢を、つまりはいるはずの自分の不在を子どもの目のなかに読みとっていたとしても、それが「子どもの夢」であれば、現実の側から、そして大人の側から相対化できる。わたしはいる。ここ(here)に。
こういうことを書きながら、モデルが実在する可能性が高い「ここ」ちゃんに、たとえば本人に向かって、あなたは「here」の別名だということができるだろうか、と考えてしまう。あるいは逆に、これは別人の話であり、どれだけ設定が似ていてもあなたにはまったく関係ないことだと言い切ることはできるだろうか。そういう問いを立てる時点でわたしはなにかを致命的に混同してるだろうか。歌集中にもうひとつ登場し、失われる人名である「とき」に「now」を読みとりかけながら、そういう読みはしてはいけないとつよく感じてしまっている時点でわたしは混同している。短歌は混同している。短歌とは不思議なものだと思う。