山に来てほのかにおもふたそがれの街(まち)にのこせしわが靴(くつ)の音(おと)

若山牧水『別離』(短歌新聞社:1994年)※初版は1910年


 

『恋人不死身説』を読むよりも恥ずかしい気持ちになれる相聞歌集『別離』より。若山牧水の第三歌集にあたる歌集ですが、前半に第一、第二歌集が再編されて入っているので、初期の歌がまとめて読めるお得な一冊という感じ。そして、相聞度はかなり高く、濃い。恋愛に溺れ、恋愛を嘆くこのテンションじゃないと出てこなかったであろう名歌、超有名歌も読みどころな歌集だけど、さいきん夏バテのわたしにはちょっとしんどめだったので恋愛ハイの歌は飛ばしながら読み返していたところ、音に対する独特の感覚が発揮される歌が一定数あることに気がついた。

秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈(みゃく)はうつ
白昼(ひる)の海古(ふる)びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に
人の声(こゑ)車のひびき満ちわたるゆふべの街に落葉するなり
夏白昼(なつまひる)うすくれなゐの薔薇(さうび)よりかすかに蜂の羽音(はおと)きこゆる

たとえば一首目に顕著なのだけど、頭痛のときにこめかみで自分の脈の音が聞こえてくる感覚を思い出すような、内向的な聴覚で、かつ触覚寄りの聴覚。そして全体的に音に対してちょっと神経過敏な感じ。

けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴(なら)しうち鳴しつつあくがれて行く

そうした歌を読んでいると、この有名な一首の「こころの鉦」がふと心臓にみえてきたりする。この歌は心のなかに起きていることではあるし、旅行詠の最中に出てくるこの歌は前後に寺社の歌が多いこともあって「鉦」のビジュアルがわりと固定されているので、臓器には関係のない心の風景としてとるのが自然だとは思うのだけど、作者には自分の心音がお寺の釣り鐘の音くらいに響いていたのではないか、心臓の音が大きすぎることによって発生した心象風景なのではないか、と思ってしまう。夢のそとの物音が夢のなかに取りこまれることがあるように。

 

掲出歌に詠われる「靴の音」も、自分の身体が生み出す規則的なリズムという意味では心音の延長線にあるものだ。それを街に「のこしてきた」という不思議な感覚は、時間の経過、場所の移動を経ると消えるはずだという原則をねじまげるほどに自分の靴の音が強い、という過剰な意識のあらわれだと思う。しかし、この歌の場合はその靴の音のつよさによって本体(?)が留守になっているようなところが結果的に魅力である。「山」から連想させるやまびこも味方につけているだろうか、靴音だけが虚ろに響き、音の主は退場したような歌だ。
この「靴の音」は、作者の心臓の支局だという意味で〈白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海のあをにも染(そ)まずただよふ〉の「白鳥」と同じ性質のものなのではないかとも思う。遠すぎて読者からはいっけん心臓にみえない距離に置かれてこそ、作者の心臓は短歌との共同作業ができるのかもしれない。