染野 太朗


死ぬまえになにが食べたい? おにぎりと言おうとしたら海が開けて

西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』(書肆侃侃房、2018年)

 


 

今日の一首は「僕はおにぎりが食べたい」という一連19首の末尾の一首。

 

この歌集の解説「生きていくこと」に加藤治郎は「(この)おにぎりの歌は哀しい。問いかけてきたのは神か。意識は薄れてゆく。「おにぎり」と口が動こうとする。その瞬間、開けた海は最期の眩い光景だ」と記す(( )内は染野注)。おそらくこの一首の哀しさの質をわかりやすく濃く提示するために、あえてこの一首を、まさに「死ぬまえ」の場面にかさねて鑑賞しているが、もちろんそれは解説のための喩的表現であって、読者としてこの一首を「死ぬまえ」に限定して語る必要はないだろう。

 

しかし僕も加藤とまったく同じく、まずこの歌を哀しいと思った。そして哀しいと思う自分に驚いた。僕は「おにぎり」と「海」にかなりの感情移入をしているのだろうと思った。そこに感情移入しているのだとしたら、名詞のもつイメージにばかり頼って歌を理解しているということになる。

 

素朴で、心的なぬくもりをも想起させて、かつ、個々人がそれぞれに私的な思い出や思い入れ(ときにそれはその人の幼少期と深くかかわる)をもっているのだろうなと想像させるのが「おにぎり」。それだけでまず僕は、「死ぬまえになにが食べたい?」という問いかけの答えとして、「おにぎり」を無条件に「哀しい」と思ったのかもしれない。ずいぶんと感傷的だ。ただ、これが「ホットケーキ」とか「焼き鳥」とかであっても、その場合ユーモアが強調されてしまうけれど、それでも哀しさもいくぶんは喚起されるだろう。その、それでも哀しさは喚起される、ということに大きくかかわるのが「海が開けて」。加藤は「最後の眩い光景だ」と言ったが、このまばゆさこそが哀しさの根本であるように思うし、読みにおけるくせものだと思う。この歌、実景としてとらえれば、電車や車に乗っている場面として読むことができる。そのようなときに目の前にひらける海は、感嘆や歓喜をともなって迎えられる。まばゆい。晴れていればなおさら。ただ、そのように「まばゆい」と感じる僕は、たぶん海というものに、偏った感情移入をしている。海、というだけで感傷的な気分になっている気がする。でもそういう感情移入のままもうすこし読んでみる。それで、そのまばゆい海がおにぎりを呑み込んでしまうようなイメージを僕はここに読んだのだが、けれども、海はここで悪役にはなり得ない。死ぬまえに食べたいものとして思い入れ(あるいはおにぎりに「思い入れがない」という点において思い入れがあるのかもしれない)をもって提示されたおにぎりが、海のまばゆさに呑まれるけれども、あくまでも海には感嘆や歓喜がともなっている。だから「おにぎり」がこの人の声になる前に海に呑まれてしまったとしても、それに代わるのは感嘆や歓喜であって、つまり、海は悪役にならない。海はおにぎりを排除しているけれども、かといってネガティブなものにはならない。

 

そしておにぎりも、そのぬくもりを失わない。目の前の海のまばゆさに呑まれてしまっても、声にならなくても、歌にことばとしてあらわれたそれは、歌のなかの場面やその物語からは消えても、ことばとして、歌という器において保たれる。見せ消ち、に近いかもしれない。

 

声にもされずに海のまばゆさに消えてしまったおにぎりはここで、はかなく消失したイメージを保ちながら、それでも海のまばゆさと拮抗するものとしていつまでも歌に存在してしまう。おにぎりは弱々しくも存在感を保ち、海は強い光を放っておにぎりを消してしまいながら悪役にはならない。「開けて」の言い差しも効果的で、まばゆさを感傷的な気分とともに歌に定着させる。

 

……とここまで読んで、僕はこの「拮抗」ということにつつかれて哀しい気持ちを味わっているのだろうな、と気づく。これほどにやわらかく、ひろびろとしたイメージをさえ喚起する歌なのに、どこか窮屈なのだ。この人の思い入れのなかにある「おにぎり」が、その思い入れという点においていつまでもそこにとどまり、しかも一首は、〈具体〉と〈観念・抽象〉の中間にあるかのようなこの「海」によってまばゆく覆われてしまう。おにぎりと海だけが一首において、ぶつかり合うことなく、しかもせめぎ合っている。なんてままならない世界だろう、と思う。誰かからの問いかけに、意思をもって答えようとしたそれは声にならず、こちらの力の及ばない外部のなりゆきによって自動的に視界をおおわれてしまう。にもかかわらず、ここに忌むべきものはなにひとつない。「おにぎり」も「海」もまばゆい。だから、声が失われるということを悲しんだり責めたりする隙がない。それを僕は哀しいことだと思う。なにも否定されるべきもののない世界においてただ自らの声が失われていくというありように、僕はまさに加藤の言う「意識は薄れてゆく」ということのイメージを重ねた。

 

『コンビニに生まれかわってしまっても』は議論すべきポイントを多く含む歌集だと思うし、上のような読み方でない方法で分析すべき点も多々ある気がしているのだが、まずはここまでとします。

 

生き方と言えばそれまで キャラメルの包みをたたむ指を見つめた/西村曜