園芸用ポールは肋のごとく立ちそこより出でず茘枝(ゴーヤ)の繁る

三島麻亜子『水庭』(六花書林:2014年)


 

夏野菜はとくに支柱を必要とするものが多い。ゴーヤやきゅうりなどのつるが巻きつく系の野菜だけじゃなく、トマトやナスなど実が重い系の野菜も支柱が要る。夏の畑では野菜ごとにあの緑のポールが何本も寄り添っている気がする。掲出歌はそんな畑、あるいは家庭菜園やプランターの光景を、すこし不思議な視点から描きだしている。
ゴーヤに対して、あのポールが「肋のごとく立」っているという。ここはちょっと貫禄のある比喩で、ぱっと見はなんだかばしっと決まっているかのような雰囲気を出してくるのだけれど、よく考えるとどういうことなのかあまりわからない。考えるほどわからなくなる。園芸用ポールは主に縦方向に直線的なものだけど、肋骨は横方向の骨がメインで、しかも直線的な部分が少ない。どの部分をポールに見立てているのだろう。中心の胸骨? 真横にぐるっと曲がっている骨? 待って、そもそも肋骨って立ってるものじゃないし、とか考えてしまう。
おそらく、ここで用いられているのは二枚の絵を重ねればぴたっと線が重なる類の比喩ではないのだだろう。喩の力点はポール=肋骨、の視覚的な見立てではなく、「そこより出ず」にあるように思う。人体にとっての肋骨は心臓や肺などの重要な内臓を収納している骨組みで、そこからなにかが出てこないのは当然のこと、どころか、なにかが出てきては困る。その困る可能性を見せ消ちのように垣間見せることで、比喩にアクロバティックな説得力を持たせている。つまり、読者に「内臓がそこから出てこないならそれは肋骨ということでいい」という逆算をさせて納得させているのだと思う。それはとても短いあいだに仕掛けられるサブリミナルで、疑り深く眺めないと、まるでポールが自然に肋骨にみえたかのように錯覚するだろう。
この華麗にして強引な力技が演出するのはある種の擬人化である。植物の上に人体を幻視させるイメージの広がりが一首の肝だ。つまり、「肋」はポールとしてゴーヤを支えるものでもあり、喩えの上での人間のボディを支えるものでもあり、ここの表現を変えたら一首が崩れる、という意味で、歌を支えるものでもある。三層をまとめて刺しているピンのようなものである。
ポールを肋として持つ人体は、筋肉や皮膚はなく、内臓が透けている妙に露な透明人間だ。茎やつるは血管、実は内臓を連想させるけれど、それらがすべて緑色=血液の色の補色であるところは、人体のネガのようにもみえる。歌集『水庭』は全体的にえろくて神聖。身体を持たないものとの性愛、とでもいうような、物理的な身体性をすり抜けつつなにか湿った質感を残す歌が多い。掲出歌のゴーヤの持つ透明で断片的で、しかし奇妙に印象的な身体性も、歌集中のそういった歌に連なるものだとも思う。

 

ところで、借り物の肋骨から連想するのは、この歌がそれを踏まえているかどうかはわからないけれど、旧約聖書のアダムとイヴのエピソード。聖書のエピソードではアダムのあばら骨の一本がイヴの身体の原材料になるけれど、この歌ではポールとゴーヤは一体化していないのがおもしろい。絡みついて、支柱にはするけれど、ゴーヤはけっきょくゴーヤだけで繁る。

 

手のわざの多しと言へど君の背にまはした十指で拝む観音/三島麻亜子