地に近く黄の色を曳く蝶々よおまえがたてるものおとあらず

中津昌子『むかれなかった林檎のために』(砂子屋書房、2015年)

 


 

「蝶々」の実体があるようでない、と思った。蝶が詠まれた歌というのは本当に数多くあって、それらの歌のなかでこの歌だけが特別にそういう印象をもたらすのかと言えばそうではないはずなのだけれども、とにかくそう思った。「蝶々」という語のみがかろうじて歌のなかで蝶を具体へと引き上げているけれども、その前後の内容は蝶を形容したり説明したりするものでありながら、蝶の形容や説明としてのみ機能するものではなく、「蝶」を具体へと固定しない。まず「地に近く黄の色を曳く蝶々よ」だが、「蝶々」という語に至るまでに示されるのは、「地」と「黄」とそれらの接近。どこの路地だとか野原だとかいったことでなく、ただ単にそれは「地」と指し示され、色だけが描出される。だから初句から順に読みながら、具体的な手掛かりはなにもなく、ただ観念としての抽象としての「地」と「黄」を、漠然とあたまに思い浮かべるしかない。それで、「蝶々」という語に至ってはじめてそれが具体として像を結ぶのだが、それでも「地」についてはやはり路地でも野原でもないままであり、観念の領域を出ない。そして、「地」のすれすれをひらひらと舞う黄の蝶をぼんやりと思い浮かべるけれど、その像になんとなく自信がもてないのは、「黄の色の蝶々」でなくて「黄の色を曳く蝶々」だから。蝶と「黄」が別々のもので、蝶が「黄」の色を引いている感じも想像できると思う。色が体から遊離したような、ふしぎな蝶も見えてくる。やはり、現実のあの具体的な「蝶」からはややずれている。そして「蝶々よおまえがたてるものおとあらず」。そもそも上の句になんらかの音を(あるいは無音をさえ)イメージすることはなかったけれども、そこからダメ押しのように音が差し引かれる。大前提であったはずの「そこに音がない」ということを「ものおとあらず」いう措辞によってさらに描く。そうされたとき、読者にもたらされるのは、「たしかに、蝶というのは飛ぶときに音をたてない生きものだ」という発見。再発見。この、改めて提示される「無音」ということが、この「蝶々」を、なんらかの象徴性を帯びた存在として、喩的な存在として、浮上させる。すなわち「蝶々」は、さらに具体から遠ざかる。しかもここでは「おまえ」と呼ばれる。擬人化、とまでは言わないまでも、主体にとっての存在感が、それが良いものであれ悪いものであれ、あるいは重いものであれ軽いものであれ、「おまえ」という呼称によってその輪郭を濃くする。つまり、呼称として二人称が選ばれるべき〈関係〉が生じるということ。さらに、「おまえがたてるものおとあらず」と打ち消しでもって描写されたそれは、見せ消ちの効果で、むしろ他の「音をたてるもの」を読者に想像させる。それで、ここからが大事なのだけれども、にもかかわらず、「おまえ」も、「おまえ」というふうにこの主体が呼びかける動機もそれとの関係性も、この歌の外で待ちかまえているはずの「音をたてるもの」も、いっさい不明のままなのだ。もしそれがはっきりとすれば、それとの対比によって、「蝶々」はただちにその象徴性を明らかにする。ところがわからない。平仮名書きの漠とした印象はその「不明」ということにいかにも沿う。関係性が不明だから、おまえ、と発する声の主さえ誰(何)なのかよくわからなくなる。だから「蝶々」は、「なんらかの象徴性を帯びている」というシグナルを発するだけで、ただそこに浮遊するのみとなってしまう。しかも、上に見たとおり、上の句の形容も、観念的なそれであって、「蝶々」を実体のレベルに引き上げきることをしないし、象徴性の内容を明らかにする手がかりにもほぼならない。そしてついにこの「蝶々」は、具体としても、それから(言い方はへんだけれども)象徴としても、実体を持つことがない。具体と観念のまじりあったような、あるいは、どちらにもなりきれないものとして、「蝶々」という文字と「ちょうちょう」という音のみを携えた漠たる存在が、歌のなかを浮遊する。「蝶々」という語が、概念としての〈蝶〉をごくごく薄く引き連れて、歌のなかをただたよりないようすで舞っている。

 

ボール二つ掌にもちサーブするときの空がいちばん青かったのか/中津昌子