平岡直子


うれしいの わたしもうれしいゆふやけが夏の水面をまたたかせると

木下こう『体温と雨』(砂子屋書房:2014年)


 

独白のようにもみえる初句の〈うれしいの〉は、一字空けを挟んだ二句目で〈わたしもうれしい〉と同調されることによって独白ではなく問いかけであったことがわかる。うれしそうな誰かがいる。同じようにうれしいわたしがいる。そのうれしいとこのうれしいは二句目でいっしゅん重なるけれど、三句目以降でははぐれていってしまうように思える。問いかけている相手は「わたし」には「うれしそうにみえる」のだろう。実際に「うれしい」のかもしれない。だけど、「ゆふやけが夏の水面をまたたかせるからうれしい」かどうかは、それが相手の言葉として発されないかぎりはわからないし、歌のなかで示されているのはあくまで「わたしがうれしい理由」としてのみである。「わたしも」の「も」は、あたかも両者のうれしさの理由が一致しているかのような印象を与えるけれど、果たしてそれでいいのだろうか。

 

「うれしいの」の「の」によって口語っぽさが強調されるこの歌の文体はやや複雑にできている。「うれしいの わたしもうれしい」までは、日常的に使われる話し言葉という意味で文字通りの口語として成り立つけれど、三句目以下は口語文法を使ってはいるけれど話し言葉としては不自然な、いわば疑似的な口語だ。前半はたまたま定型と一致した口語、後半は定型に洗われた口語という感じ。一首の見た目上の切れ目は初句と二句目のあいだの一字空けの部分にあるけれど、文体に注目した場合、構造的に切れるのは二句目と三句目のあいだ、倒置の直前の部分だ。
その切れ目で一首を〈うれしいの わたしもうれしい〉〈ゆふやけが夏の水面をまたたかせると〉の二つに切って見比べると、この二つのパートがよく似た表情をしていることに気がつく。夕焼けという光が、川だろうか、海だろうか、水面で浅く反射することによるまたたきと、ふたりの人物のあいだで反響するかのような「うれしい」。この上句は、下句の景色に呼応する心象風景(いや、「風景」と呼ぶほど視覚的な情報はないので、心象音?)として書かれているようにも思える。つまり、一字空けの上で反射してまたたく「そのうれしい」と「このうれしい」は、もともと同じものだったのではないか。短歌の二人称はほとんどが厳密には二人称ではなく、2.5人称と1.5人称しかないような気がするのだけど、この歌は1.5人称の歌、二重写しの一人称がちらちらと二人称にもみえるような歌だと思う。そしてそう読んだとき、ファスナーが噛み合うようにふたつの「うれしい」が歌の最後までとおるのを感じる。
わたしもまたうれしい。夏の水面がそうしてあなたをまたたかせると。