水は青く、ないと言ひ掛けザラザラのプールサイドに膝抱へゐき

木ノ下葉子『陸離たる空』(港の人、2018年)

 


 

水は青く、までを口にしたのだろう。プール自体は青く塗られている。あるいは、海でも川でも水道の水でも、青や水色で表現される。けれども実際には水は青くなく透明だ。でも「水は本当は透明なのになぜ青で塗るの?」とか「水は青じゃない!」とか、それをことさらに言い立ててみせることを〈大人〉はしない。また「本当は透明だけれど青ということで納得すべきだよなあ」などとも思わない。「水は青くない」とすら思わない。つまり、水が青であることは、事実ではないけれども、事実でないということすら問題にならず、言わば〈大人〉の側の常識的な喩として通用している。この主体は「水は青くない」と意識している。その点で〈大人〉ではない。〈社会〉のほうにいない。けれどもそれを口にしていない。プールサイドのコンクリートのあのザラザラを体に感じながら膝を抱える姿には、青であることに納得するようなようすは見られない。納得できないことを抱えている。でもそれを口にしない。だからおそらく、水が青くないとことさらに言い立てる自分や水が青であることに納得できない自分はその場にそぐわないものなのだと理解し、それを抑え込んでいる。もちろん、それを抑圧するということは、あくまでも「水は青くない」という思いこそがこの人の本音であって、それが解消されているわけではない。〈大人〉〈社会〉がいかなるものかということを十二分に理解しながら、しかしそちらのほうへ踏み込まない(踏み込めない)でいる自分を感じている。青い水に飛び込めないでいる。そして青い水で濡れたプールサイドに、膝を抱えてじっとしている。「言ひ掛け」、つまり〈大人〉〈社会〉にそぐわないことを言わないでいるということだけが、その「言わない」という事実をもってかろうじて〈大人〉〈社会〉との接点になっている。この痛々しさはもしかしたら、前回話題にした「青春」ということと通じるのかもしれない。抱へゐ「き」であるから、そのような自分を回想しているわけだ。この人が今〈大人〉〈社会〉のほうにいるのかどうかはわからない。ただ、この「水は青く、ないと言ひ掛け」「膝抱へ」ということの提示が回想においてなされているという点は、この一首の青春性を演出しているようにも思う。

 

……というふうに読んで、でも一番印象的だったのは、「水は青く」と言い差しのまま、それだけが歌のなかで声になっているところ。自らの思いは「水は青くない」なのに、声になったそれは「水は青く」。しかも言い差しだから、完結せずに、いつまでもその声は響いてしまう。自らの思いとはほとんど逆のそれが、「言ひ掛け」る、ということの抑圧を経ることによって、むしろその人の思いとしてそこに響きつづけてしまう。透明だったはずの水が、青という色に侵されていく。思いとは逆のはずの「水は青く」という自らの声が、自らを青い水のほうへと押し流す。初句において、そのあとの「、ない」の句跨りの力を得ることで力強く発せられてしまったこの言い差しは、そこに乗るはずの思いを奪われたまま、水は青いのだという〈事実〉で歌を浸してしまう。

 

『陸離たる空』からすこしだけ引きます。

 

父の余命告げられて乗る車窓にはさよなら以外の全てが映る
もう何も食へぬ体を屈ませてリモコンの電池換へたりし父
午後二時前 父は逝きたりその時刻日々教壇に立ちけむ父よ
死ねといふことば初めて口をつき松ぼつくりを拾ひに拾ふ
どの雲も同じ形にしか見えず指切り知らない小指よ戻れ
迫り上がるガラスの窓は運転席の君を消しつつ夕映えてゆく
動かなくなるまで蟻を泳がせし赤きバケツの赤き水かな/木ノ下葉子