染野太朗


みづからの空虚にながくくるしみし年月を仮に青春と呼ぶ

山田富士郎『商品とゆめ』(砂子屋書房、2017年)

 


 

身のめぐりと社会、具体と観念、現実と空想(空想、とも断言できないのだが)、現在と過去(未来)、のあいだを自在に行き来する。思想・思考の類いが色濃く映されたかと思えばなんてことのないスケッチもある。シャープな批評に驚かされた直後にあまりにもやさしい抒情がこちらを包み込んできたりもする。他の文学・芸術作品等からの引用も多そうだ。なのに、韻律というか文体というかにはあきらかに筋がとおっていて、散漫な印象はない。ブレはなく、落ち着いている。ふしぎな歌集だ。だからこそ、まとまった一冊としてなにかを語ろうとすると、とりこぼしがやたらと多くなる。気になる歌が多く、付箋がやたらと減っていく。

 

公然の秘密はイスラエルの核ヤハウェのごとく不滅なる核
蜜柑のはな咲きたるあさの耳ふかく時のながるるおとのきこゆる
落胆はゼリーにちかき質感に室内に充つプレジデント彼が
卓の上に雨ふるやうな沈黙も悪くない蛭の這ふ平和より
きみもわたしも一瞬のなみ遺伝子の海にたまたまたちあがる波
白鳥はつぎつぎにきて着水す珈琲にミルク入れますか、はい
雁かへるそらにおとなく誰よりもたれよりもおそくものはおもはむ
渡り鳥のごとく消えたりホテルセブン・エイトの老いたるフロントマンは
レヴィ=ストロース死にて死にせり葡萄の枝焚きたるごときよき香をのこし
海のかた山のかたより飛びきては相寄るつばめ青空ふかく
ガレージのシャッターをあげ待ちてゐしつがひの燕もどりきたりぬ

 

歌集のほんの前半部分のみからだが、やはり引用し始めるときりがない。「核」と「ヤハウェ」を直喩で強力に結び付けてしまう一首目の、短絡がもたらす危うくも強烈な批評。二首目は、童謡の「みかんの花咲く丘」なども意識されていようか。すると、「時のながるる」には、現在進行形の(観念としての)「時」も、みずからの幼少期から現在にいたる具体的な(歴史としての)「時」も、同時に感じ取ることができる。三首目、選挙によってアメリカの大統領が決定した瞬間、だと思う。「プレジデント彼が」というつぶやきによる字余りは、「大統領」でなくカタカナ書きの「プレジデント」であるがゆえの、明るくかつ軽薄な、しかもどこかにアメリカの歴史を重たく意識させるような、独特の質感を歌にもたらすように思う。四首目、「蛭の這ふ平和」という批評にインパクトがあるが、それに対比される「卓の上に雨ふるやうな沈黙」の、おそらく卓を挟んで向き合う人同士、の関係をどこかシュールな映像とともに簡潔に伝えるありように、目を瞠る。……やはり、読み始めるときりがない。また、どの一首も、音の構成にさりげなく配慮が利いていて、「読む」ということをフィジカルなところで気持ちよく刺激してくる。気持ちよく、と言っても、目立つようなきらびやかなそれではもちろんないから、得られる体感はたいへんにしずかで、落ち着く。

 

今日の一首。青春の定義よりなにより、「仮に」という措辞に立ち止まった。なぜこの一首の主体は「仮に」と言うのだろう。「みづからの空虚にながくくるし」む、ということ以外にも青春の定義はありうるのだ、ということを言いたいからか。だとしたら、そうしてまでなぜここで主体は青春を話題にするのだろう。そのような「年月」を青春と呼んで、自らが過ごしたそのような時間を慈しんでいるのだろうか。あるいは逆に、青春一般に対する揶揄なのだろうか。いずれにせよ「仮に」と自覚している以上、その「年月」は「青春」である以外の可能性をつねに持ちつづける。そしてそこから照らし返すとき、「青春」などと呼べるような「年月」はこの主体に、そしてこれを読む僕たちにもありえないもの、つねに「仮に」と条件を付けるしかないもの、単なる幻想、というようにも思えてくる。そして、実感をともなったそのながい「くるしみ」を思う。青春と呼ばれずともかつてそこに存在していた「くるしみ」。その過去の「くるしみ」の実感は濃く、しかしそれを「仮に」といって「青春」と名付けるありようはあまりにも軽やか、いや、むしろ「空虚」というようにも思う。「青春」が終わっても、人生が「空虚」であるという事実に変わりはなく、ただそれによって苦しむということだけが消失した現在。「仮に」を境にした、過去と現在の、「くるしみ」をめぐるふかい断絶と、「空虚」をめぐるどうしようもない連続が、このあまりにもシンプルな構成の一首から、同時に滲み出している。そして、この歌を見つめれば見つめるほど、そのシンプルさは、論理や直感や時間の感覚において、読者の理解や感受をむしろ複雑なものにし、この一首そのものが「仮」のものであるかのような、さらに、「青春」と呼ぶべき以外の人生の「年月」さえ「仮」のものであるかのような、ふしぎな眩暈のようなものをさえ体感させる。