平岡直子


耳よりも大きいキティのストラップ揺れて少女は突然泣いた

川口慈子『世界はこの体一つ分』(KADOKAWA:2017年)


 

「耳よりも大きい」というキティのストラップは、書かれている通りに人の耳より大きいのだろうけど、それはほとんど「小さい」ということに思える。人の手より、顔より、全身より小さいだろう。しかし、それは同時にやはり「大きい」ということでもあるのだ。「耳よりも大きい」というのは具体的なサイズは思い浮かべやすい言いかただけど、それが世のほかのキティたちと比べて小さいものなのか大きいものなのかが判然とせず、その判断の根拠になる「標準サイズ」が曖昧であるというキャラクターものの宿命を思い出させられる。たとえば、同じストラップでもいわゆる「ご当地キティ」は指先サイズで耳のなかにでも入りそうな小ささだし、聖地サンリオピューロランドで動いたり踊ったりする生身(?)のキティは人間くらいの大きさがある。モデルが猫であることをリアリズム的に受け止めるとまた違うサイズ感が思い浮かぶ。ちなみにハローキティの公式プロフィールは「身長は林檎五個分」とのことで、向こうには「標準サイズ」をはっきりさせる気ははなからない。この歌では「そのキティが人の耳より大きい」ということはわかっても、その位置づけはわからないままだ。つまり、ここにいるのは相対的なキティではなく、絶対的なキティなのだ。
それでも「耳よりも大きい」という言いかたが選ばれているのは、「キティの標準サイズ」はさておき、「ストラップの標準サイズ」よりは大きいからだ。携帯電話に対して本来小さな付属品であるはずのストラップが放つ大きな存在感は、少女と携帯電話の関係がスライドしたものでもあるだろう。奇しくも片耳にリボンをつけているのが特徴のキティは、片耳に携帯電話を当てる少女の姿を模倣しているものであり、「耳よりも大きい」の不穏さ、つまりキティが少女「よりも大きく」なりかねない予感や、すでに少女の耳は隠しつつ、キティのほうの耳は露出してると思われる景は、キティが少女を乗っ取ろうとしてるようにも思える。
結句の「突然泣いた」が感動的なのは、そこに至るまでの少女とキティの緊張関係を破りつつ、両者を別のかたちでつよくつなげるからだ。少女が「泣く」のは、無表情が身上のキティとの分岐点でもあり、一首のなかに直接的には書かれていない「携帯電話」の役柄を引き受けたようにも思える。とつぜん鳴りだすものとして、また、振動でストラップを揺らすものとして。そして、そうなるとますます少女はキティに「つながれて」いるようにもみえてくる。
実景として想像すると少女の電話の相手が当然いるのだろうし、泣く理由にその相手が関わっている可能性も高いだろうけれど、そのあたりを読者に想像させる余韻のだいぶ手前ですぱっと切ることで、この歌はある儚い見えかたを描きだしていると思う。生きもののようなキティと、機械のような少女が、絡まった関係のなかに倒れこんでいく寸前の、狭い、濃い世界だ。

 

話はすこしずれるけれど、「標準サイズ」が定まらないのはキティだけじゃない。この歌集のタイトルは『世界はこの体一つ分』、タイトルではなんだか確かな物差しのような顔つきの「体」が、その印象を裏切って歌集中でどれだけ不確かな輪郭として伸び縮みするか、何首か紹介しておきたい。

三百年先のバッハの演奏を想像すれば味覚が狂う
電球を替えんと椅子に見下ろせば我が暮らしいる一室縮む
新宿に魔術師の顔して立てば喧騒も胸の中に収まる
整骨院入口に立つ骸骨に夕虹の脚暗く届きぬ
サンシャイン通り自転車で突っ走る午前0時の月が遠いよ

 

大きいストラップをみなくなった。というかストラップ自体をみなくなった。街中で人々が、すくなくとも若者が携帯を耳に押しあてて長電話をする姿をみなくなった。「平成」という言葉は終わる前から早々とノスタルジーを帯びはじめている気がする。時事を記録しようとしたわけではなく、ある濃密な瞬間のうしろにたまたまいくつもの懐かしいアイテムが映りこんでしまったこの歌は、結果的に平成の景色を記憶する歌だと思う。ごく個人的にも懐かしい歌なのだけど、その話はまたいつかどこかで。