昼食(ひる)ひとり済ませぬとほき球場の高校生を画面に見つつ

髙野岬『海に鳴る骨』(角川書店、2018年)
※( )内はルビ

 


 

ものごとの質感がちょうど歩くくらいの速さで淡々と提示されていく歌集、というふうに思った。とても心地よく読み進めた。歌の内容と音の構成にぼんやりと意識を向けているだけでなんとなくこちらの心身がととのっていく、というか。とてもおだやかだ。……ではなぜ僕がそのような印象をもったのか、というところも理屈でこまかく見ていけるのだろうけれども、とりあえずここでは何首か引いて読んで終ります。

 

見てゐるとこちらを向きぬなほ見れば犬は瞳を深くして待つ

 

犬が視線を感じてこちらを向き、さらに見ていると犬が、なにかあるのか、といったふうにじっとこちらに視線を返し、そのまま待っている。犬の動きやこころの動きを想像すると、とてもかわいらしくて、楽しくなる。「瞳を深くして」は、犬の眼のことを言っているわけで、犬の瞳にぐっと近寄った映像も見えてくるのだが(瞳に近寄って終わるわけでなく、「待つ」が犬の行為をあらわして絶妙で、犬の全身が一首の最後にもういちどちゃんと見えてくる)、でもここにはまずこの人の、犬に対する愛情こそがつよく感じられる。

 

朝刊を配りつつゆくオートバイが夜(よ)の緊密を解きてまはれり
漕ぎ出だす人の力が自転車と調和してゆくまでを見てゐつ

 

場の質感や対象が理によってとらえられているけれど、結果的にはそれが理を超えたところで読者の体感そのものを刺激してくる。新聞配達のバイクの音で変わる夜の(つまり朝の)空気(ものすごくこまかい、あまり理屈で説明できないところなんですが、「オートバイ」という語の音や「オートバイが」のわずかな字余りが、バイクが走っては止まりをくりかえし、それがしばらく続くあの音の感じ、音だけが部屋に聞こえてくるあの感じと、よく馴染むように僕は思った。長音も利いている。バイクでなくて「オートバイ」というところにも、それによってしか出せないニュアンスがあると思う)や、自転車の走り始めのようすが、体感をともなって印象的に描かれている。

 

夕立にふと暗みたる部屋にゐて珈琲のやや冷めたるを飲む

 

本当になんでもない叙述の歌だけれど、夕立の音と部屋の暗さ、珈琲の色やその冷めた感じが、そこにただよう空気を驚くほどシンプルに、しかも十分に伝える。「飲む」がやはり絶妙で、これによってこの人は、ちゃんとこの〈場〉の一部になる。「ただよう空気」を客観的に提示したり観察したりするだけの存在ではなくなる。

 

県道の狭きにぐんと向き変へて矩形のままに曲がりゆくバス
助手席から見てゐる空に飛行船が浮かんでゐたんだけれど言はない
ダンボールの箱ごと冷えて届きたる愛媛みかんの房頰張れり

 

こういった歌もある。
さらにもう少し。

 

綱つけて散歩するもの失ひて浜へ出ること少なくなりぬ
都心から従ひて来て朝羽振る波を怖れし海(カイ)といふ犬
我が犬を抱きゐしときの手触りをどのやうにして覚えておかむ
犬の死で湧きし数多の後悔を心は上手く整理してゆく
求めなくなつたからなのだ死んだ犬がその気配さへ消してしまつたのは
犬のねむる海がこの夜鳴り止まずベランダに出て「おやすみ」と言ふ

 

ここではほとんど引かないでいるけれど、作者は海沿いに住んでいて、歌集にも海の歌は頻出する。そしてその暮らしのなかで、先に引いた瞳の歌の犬は亡くなってしまう。哀しみはたいへんに深いが、歌そのものには、情におぼれるようなべったりとした印象はない。

 

今日の一首。うまく説明できないのだが、最初に読んだとき「とほき球場」がとても気になった。いかにも力に溢れて汗その他のきらきらとした高校野球と自分(の状況)との対比、というのがおそらくこの歌の大切なところであり、そういった点ではこれもなんでもない歌なのかもしれないが、そういう対比からすこしはみ出たものもこの「とほき球場」には感じられたのだ。「とほき」は、それが自分の日常とは切り離されたものであることを説明しながら、日常/非日常ということを超えた、どこか異次元のものであるかのような印象をこの「球場」にもたらしているように思う。「とほき高校生」とされるよりも、自分のいる場と球場との物理的距離自体が問題になるからか、自分のいる場所からいきなり球場へ飛び、そしてそれが「画面」をとおしてぐっとこちらにまた戻ってくるという、空間の妙な歪みのようなものを感じて、それがこの「球場」そのものを僕に異次元のもののように見せたのかもしれない。画面で見ていながら、球場そのものを上空から眺めるような視点・映像も割り込んでくる。それから、上に記した「対比」ということと並んで(あるいはそれ以上に)印象的なのが、高校球児とか野球の選手とか言わずに「球場の高校生」と言っているところ。試合を観ているにもかかわらず野球にはほとんど興味がないような感じが出ている。おもしろい。たまたまテレビで流れていただけという感じ。ちょっと歌からははずれるが、「画面」をテレビととるか、パソコンやスマホの画面ととるか、そのあたりに深入りすると、現代の「読者」という観点でなにか発見があるかもしれないな、と思う。

 

引きたい歌はまだありますがここまでにします。