平岡直子


ふだん喋る機会のない人からペンを借りおめでとうと書いて返した

新上達也「冬の動画」(「穀物」4号:2017年)


 

なんとなくわかる、の塊のような状況である。ふだん喋る機会のない人、わかる。お互いに顔は知っているけれど、言葉を交わす理由も話題もとくにない感じの距離感、わかる。そういう人からペンを借りることになる巡りあわせも、わかる。たまたま必要なときにペンを持ってなくて、手近にはその人しかおらず、ペンを貸してください程度の頼みごとにはそれほど抵抗がない関係性、わかる。
「おめでとう」とひとこと書くような場面もなんとなくわかる。わたしが想像したのはなにかお祝いの場での色紙の寄せ書きだけど、たとえば会場アンケートの類や、返信葉書、「おめでとう」を走り書きすべき紙はいろいろとある。
そんななかでトリッキーなのは結句の「返した」で、ここは「ペンを返した」でもあり「色紙(または葉書でもなんでもとにかく「おめでとう」が書かれた紙)を返した」でもあるだろう。一首のなかでの貸し借りにきっちり片をつけながら、どさくさ紛れに借りてないものまで返している。結句にぶつかったひとつのボールが、歌の三句目まではね返るボールと、初句を飛び越えて歌の外側まではね返るボールに分裂したかのようである。
この分裂は歌の印象をたわませる。ペンが返されていることに重心を置いて読むと「おめでとう」がミステリアスに宙に浮くし、色紙が返されていることに重心を置いて読むと、「借りたけど返してないもの」と「借りてないのに返すもの」が相殺されているかのようなすれ違いが目についてくる。それらは要するに、歌から省略されている部分のうちのどこに焦点が合うか、ということだけど、どうしても「返す」の二重性によって目移りしてしまう。そして、この歌のたわみは状況の解像度を下げるのと引き換えに言葉の手触りの解像度を上げているのではないだろうか。状況説明に奉仕することを半ばあきらめた言葉たちは、たとえば「無声的である」という点で手を結び、一首を筆談の光景のようにもみせるだろう。最初に設定された「喋る機会のない」が徹底され、ペンで言葉を書くことが会話のすべてになる。そう感じるとき、ペンを貸してもらったことに対するレスポンスが「ありがとう」ではなく「おめでとう」であるすれ違いっぷりも「ふだん喋る機会のない」ゆえのぎこちなさを感じるおかしみと切なさがある。
そして、不思議なことに状況の解像度と引き換えに「なんとなくわかる」度も上がっていくのだった。人から借りたペンで何かを書くのはその人との筆談だし、書いてしまった「おめでとう」という言葉は状況とは無関係にそこに存在する。ペンを貸してくれた人と「おめでとう」の宛先が別々の人間でも、自分からの距離感の点でほとんど混ざって感じられることもある。こういったことについて、わたしは「よく知らない人からペンを借りる」というような「状況」よりも「わかる」と思わされる。
新上達也の歌は引用と省略でできていて、いくつかのジャンルの既存の言葉(話し言葉、PC用語や報道用語などの独特の言い回し、ベタに詩的なフレーズなど)が、大胆に一部を省略されたり、ふつうは出会わない別ジャンルの言葉と組み合わされたりして新しい表情をみせる。しかし、そこで行われているのは言葉に新しい詩情を与える試みというよりは、もともと持っている性格を適切に露出させるための言葉の洗濯のような作業に思われる。わたしたちがほんとうに驚くのは、未知のものではなく、よく知っているものを短歌の上にみせられたときである。

 

 

おもしろい作者なのですが、現状、同人誌「穀物」でしか作品が読めないのでちょっと多めに引用しておきます。

拭くためにできた布きれ テーブルにひかる炭酸水をどこかへ/新上達也(「早稲田短歌」四十一号)
買いたてのノートを持ってきてしまいもう二度と書けないほど洗われる(「早稲田短歌」四十二号)
拾われた方はこちらの番号に電話してどこから話そうか(「穀物」創刊号)
いつもものが挟まる歯の隙間のことでそんなかなしい海になるとは(「穀物」二号)
十月の終わりをきみと訪れてクイックルワイパーで拭った
フライパンの中に油を敷くけれど言ってくれ間違っているなら(「穀物」三号)
以前、名をつけたことのある嗅覚が見つかる一昨年のマフラーに