庭の花グラスに挿してながめをり昼寝のあとは散歩に出でむ

山本資子「眠れぬわれを」(「アルファ」第25号、2018年)

 


 

「眠れぬわれを」は22首からなる。以下、ちょっと読み過ぎなのかもしれないけれど読んだままに記してみます。

 

おもしろい人だなあと思ってこの人物をながめた。「グラスに挿してながめをり」には、のんびりとながめるため(だけ)に、自分のためにとってきた、というようなニュアンスを読みとってもよいのではないかと思う。庭に咲く花を庭に咲かせたままながめるのではなく、とってきて部屋のなかでながめている。庭の花を部屋に飾るというのはまったく特殊なことではないけれども、そのようなニュアンスを読みとれるくらいわざわざ「庭の花」を「グラスに挿して」と、「庭/グラス」の対比の上で説明された上の句は、そのままでもながめることはできるがわざわざ切ってとってきているのだということを強調しているようで、ごくごくわずかながらも僕は残酷さを感じてしまった。それで、それがもともと部屋の外に咲いているものだったというところから、ながめているうちにその「外」へ意識が向いたのだろうか、散歩に出ようと思っている。散歩に出ようと思えるくらいなのだからやっぱりわざわざ切ってとってこなくたってよかったんじゃないか、と思う。外のものを部屋のなかに入れてしまって、けれども自分は外に出ていく。しかもグラスの花はもう庭の花には戻れない。庭の花の切られ損、というか、この花がいいように扱われて、結局見捨てられ置き去りにされるようで、やっぱりなんだか残酷さを感じてしまう。ところがこの歌はそれだけではない。すぐには散歩にうつらず、まず昼寝をしようとしている。え、と思う。すごくマイペースというか、身勝手なような感じさえする。散歩を意識させた花がやっぱりいかにも二の次にされているという感じ。あくまでもこの人の思考や行動が優先されているという感じ。ああやっぱりこの人はちょっと冷たいところがあるんじゃないか、と思ってしまう。しかも、散歩に出よう、という意志を示したところで歌は終わっているから、昼寝のあとにこの人が散歩に行ったかどうかは結局は不明。行かなかったとすればむしろますますこの花の置き去り感は増す。部屋の外を意識させる花だったのに、その「外」さえ無視されるわけだから。

 

というふうに残酷だとか身勝手だとかいうことを強調して読んでみたけれど、この歌の間合いにおいては、それがなんだかとても心地よい。自分の意思のとおりに振る舞う、ということが歌のなかでのんびりととりおこなわれていて、その感じにこちらの呼吸を合わせるとき、なんだか体の力が抜けていく。ああ、こんなふうに気ままにやりたいなあ、などと思う(それはもちろん、昼寝がしたいとか散歩がしたいとかいうことではなくて)。初句から結句まで、けっして急ぐことなく場面が提示され、思考が展開する。一度「残酷」「身勝手」などというふうに一首の〈意味〉を中心に読んでしまうとそのゆっくりとした提示と展開はむしろその「残酷」「身勝手」を強調するようなあり方にも見えてくるけれど、読者としての僕の体感はあくまでもその提示と展開の「のんびり」「ゆっくり」というところに固定されて、「残酷」「身勝手」は無理なくうっすらとしたユーモアに転じて、「なんだこの人は」とちょっと笑いながら、こういう感じもいいなあ、などと思えてしまう。この歌には読者の心を伸びやかにするようなところがあると思う。

 

枝撓る蜜柑畑を通り抜け直売所に買ふ大き八朔
花あかりの下往き来する日々過ぎて今日は踏みゆくくれなゐの蕊
咲き満ちて風にふくらむ八重桜花びらは空へ空へと散りぬ/山本資子「眠れぬわれを」

 

蜜柑畑は素通りされ、意識はあっというまに大きな八朔のほうへ向かう。結句できっちりと踏まれている蕊、しかも「くれなゐ」が強調されている。散りながらもまだ上へ上へと目指し「咲き満ちて」いる状態をあきらめきれないような八重桜に、僕はちょっとした痛ましささえ感じてしまう……いや、やっぱり僕の読み過ぎか、特に三首目は、たしかに、描かれた景を「うつくしい」「景が大きい、ゆたかだ」とだけ言って読み終えればよいような気もするのだけれど。