みぞれ みぞれ みずから鳥を吐く夜にひとときの祭りがおとずれる

笹井宏之「ななしがはら遊民」(「風通し」:2008年)


 

冒頭で二度繰り返される「みぞれ」はずれようとしている。同じ三音を二度繰り返すことで勢いをつけるタイプの初句六音(たとえば「さくらさくら」のような)と違うのは、二ヶ所の一字空けによって空白がつくられていることで、この歌の「みぞれ」には横にすべろうという意思がある。風の影響を受けやすくまっすぐに降らないみぞれそのもののように。「みぞれ」の「ぞ」が「ず」に置き換わったような「みず」が次にくるときに、「ず」の次の音として予感するのは単語をふたたび「みぞれ」の響きに収束させる「れ」で、仮にそこに「れ」がきていればみぞれが「ずれ」ようとする願いは早々と文字の上にあらわれたかもしれないけれど、日本語に「みずれ」という言葉が存在しないせいで「みず」は「みずから」へ変態してしまう。そして、そのアクシデントは歌をとつぜんまぶしく展開させる。みぞれの一片ずつが小さな鳥を吐いているかのような、あるいは作品の背後の誰かが吐く鳥がみぞれに変わっていってしまうような、変幻自在なイメージ。そのどちらのバージョンでも「みぞれ」と「鳥」は近いものとして重なり、魅惑的に散っていくけれど、「みぞれが吐く鳥」と「人が吐く鳥のみぞれ化」のあいだには「ずれ」があることもまた見せつける。みぞれの冬のイメージは、祭りの夏のイメージに歌を「ひととき」裏返し、その両極端な季節感のなかに放たれる鳥はさながら渡り鳥のようである。
長い遠回りを経て、歌の最後にずれはついに「ずれる」と言語化される。ドラマチックな結び。この「ずれる」はもちろん「訪れる」という動詞の一部分でもあるけれど、「音ずれる」を隠していることをなかったことにはできない程度には結句に至るまでに「音」はずらされてきた。「みずから」が「自ら」でありつつ、「水から」としてみぞれに混ざった水分を鳥に凝固させたのも、「鳥」「ひととき」「祭り」から聞こえる脚韻も、前に出てきた音を聞きとって拾いあげるルールで歌が進んできたからだ。そのハイライトは四句目の終わり、ここは「ひとときのまつ/りがおとずれる」という句またがりになっているけれど、句またがりの切れ目の直前の「ときのまつ」が先に出てきた「鳥を吐く」の母音をそのまま繰り返しているという「音のずれ」にあるだろう。この歌を要約するならば、「みぞれ みぞれ ずれる」だ。そして、そのずれのすき間に散るみぞれのような鳥のようなものが演出する「祭り」が激しく美しい。韻律のサーカスのような歌である。