氷片がひしめくグラスくちびるをよせるたび鳴り窓にくる蝶

江戸雪「黙砂」(角川「短歌」2018年8月号)

 


 

「黙砂」は10首の連作。そのうちの何首かをまず引く。

 

逢ったのは砂漠でそこはぜんぶ死であなたが蝶に纏われていた
アカシアの花降ってくる道ゆきに肉より熱きこころこそ抱け
くちびるはいつもわたしをおいていく 君をなくした 靴を洗った
すこしはやい時間を生きる 六芒星はるかあなたの夜へむかった
わが耳がみどりに朽ちたのち風が、そこでまた知るだろうあなたを
くちびるがすこししょっぱく砂を待つ 海だよここは、もう出会うころ

 

まったく自信はないのだが、蝶のイメージやアカシア、六芒星といったあたりを手がかりにすると、この連作から、キリスト教や、もしかしたらユダヤ教・ユダヤ人に関する(宗教的な)〈物語〉をみちびけるのかもしれず、その〈物語〉は、作中主体の個人的体験(特に「死」にまつわるなにか)に重なるのかもしれない、と思う。「砂」「蝶」「海」「くちびる」といったいくつかのアイテムが、連作をとおして出てきて、歌同士を繋いでいる。

 

そのなかで「くちびる」について。これは、主体の意識より先になにかを感知したり、あるいは、心情をおいて先に過去と決別したりするものなのかもしれない。意識に先んじて身体がおのれの生を生きている、というようなイメージを僕は読んだ。意識はいつまでも過去にこだわる(こだわることができる)が、身体は過去を振り返らない。

 

それで今日の一首なのだが、まず、上に挙げた一首目とのかかわり。「ぜんぶ死で」がなんとも特徴的だ。砂漠に対する直感的な把握がここにはある。砂漠の具体的な何かひとつを指して「死」と表現しているのではなく、その全体が「死」という語そのものによってしかとらえられない、というような感じ。迫力がありながら、一方でどこか舌足らずであり、ぎこちなさが残る。「あなた」は「蝶」によって「死」の側へと連れて行かれるのだろうか。その「蝶」が窓に来る。「あなた」だけでなく自分をも死の側へ運ぼうとする、というのだろうか。あるいは主体の「あなた」の側へ行きたいという願望なのかもしれない。

 

今日の一首についておもしろいなと思ったのは、実はすごく単純なことで、連作における役割とか象徴性とか、先に述べた〈物語〉がどうとかいうこととも違っていて、「氷片」と「グラス」と「窓」が歌のなかでほとんど溶け合っているように見えて、そのそれぞれが鳴っているような感じをイメージしてしまったということ。単純、と言ったがそれを説明するのはむずかしい。グラスに氷がたくさん(あるいは大きなものが隙間なく)入っていることを示す二句目までがあり、そのかるい二句切れを経て、「グラス」を起点にコトが展開していく。たいへんシンプルな構造の歌だ。けれどもまず、「氷片」「グラス」「窓」の素材の感じが似ていて、それから「がひしめく」から「よせるたび」までが、表記と、iとuの母音を中心とした音の構成によってちょっとごちゃごちゃとことばが運ぶようなところがあり、また、こちらに見えてくるものも、氷片が見えその器が見えさらにくちびるが登場しそれがグラスに何度か近づき、とつぎつぎにあちこち展開してしまって、そのあたりが僕の「溶け合う」という感受につながっているように思う。「鳴り」の語も落ち着かない。「たびに鳴りて」などであればだいぶ印象は違うのだろうけれども、「たび鳴り」とここだけ圧縮されたようになって素早く展開し内容理解に唐突に聴覚が要求される。さらに「たび」のビから「鳴り」のリへ、語の音の面での癒着も目立ち、「たび」と「鳴り」の境目を曖昧にしている感じがある。「よせるたび」まではくちびるの近くのグラスと氷が拡大されているのに、「たび鳴り」の素早い展開のうちにまず氷とグラスの触れる音が提示され、そこから素早くカメラが引いていって窓を示し、そこに蝶まで急に集まってくる(あるいはこの蝶は単独であり、複数ではないかもしれない)。結果として、結句に据えられた「蝶」のインパクトが削がれていて、五感の溶け合うような感覚のみがそこに残される感じがある。写実的にモノとコトを描いているはずのこの一首も、連作全体の、現実と空想を行き来するような輪郭の淡さ(それによってたとえば「熱きこころ」の熱量もどうもさほど高くないように感じられるのだが)に沿っているように感じられる。