うつしみに鎮痛剤がはなひらく再放送のような部屋にて

安田茜「default」(2017年)


 

「再放送のような部屋」という言いかたの不思議さは、「再放送」という文化をみつめなおしてみたときに感じる不思議さに大部分で重なる。朝ドラのようにあらかじめ枠が確保されていて複数回放送されるのが前提の番組もあるし、ランダムに再放送されるドラマや映画もあるけれど、共通しているのは、本放送は最初の一回で、あとは何度放送されても再放送だということだ。だけど再放送は単なる「オリジナルのコピー」のようには言いきれないところがあって、それがいちいち「放送」されていること、そのたびに同じタイミングで一定数の視聴者がそれをみることになる現象の生っぽさは、たとえば録画されたものをなんども観ることや、DVDが複製されることとはややニュアンスが異なる。
掲出歌の下句は、わかりやすく翻訳するならデジャビュのような感覚を言おうとしているのだと思うけれど、元ネタの明確さにおいても再現度においても「再放送」はデジャビュよりもずいぶん厳密なはずのもので、この歌はなんだか人の認識がデジタル化してしまったかのような印象を抱かせる。また、再放送に喩えられているのが「鎮痛剤が効くこと」ではなく、「鎮痛剤を飲むわたし」でもなく、「部屋」であることにも注目したい。部屋の様子は再放送のようでも、そこにいる「うつしみ」は再放送ではない。いまこの瞬間に本放送と再放送を同時にしているかのような、言い換えれば、いま生きていることへのはっきりしたリアリティと、それを偽物っぽくとらえている感覚とが同時に押し寄せてくる。本来はテレビの外側にある「部屋」をテレビの中身に喩えることは、テレビと部屋が裏返ってしまったような不安感も演出するだろう。ともに四角い空間であるテレビと部屋は入れかわりやすい。

 

ふたたびわかりやすく翻訳するなら上句のほうは「鎮痛剤効いた」で話が終わりそうだけど、こちらも表現上はずいぶん屈折がある。まず感じたのは、病気や痛みのほうではなく薬の効果を花に喩えるのはちょっと珍しいな、ということで、理由を考えてしまったのだけど、病気や痛みはなんだかんだで身体が生きていることの証左なのだと思う。そして、健やかな状態が身体のデフォルトなら、薬によって苦痛が鎮静化されることは「なにか余計な起こっていた状態からフラットな状態に戻る」ということになるので、「はながひらく」といった「なにかを足す」かたちの比喩は感覚的に出てきづらいのではないかと思う。それに対し、鎮痛剤の効果を足し算的に表現する掲出歌は、「うつしみ」に痛みがある状態が一時的なデフォルトに設定されていることを覗わせる。
錠剤がはなひらくイメージは、薬のCMでみるようなしゅわしゅわ溶けて効いていく感じを想像すればなんとなく腑に落ちるけれど、ぽとっと落ちた白い錠剤から大輪の花がひらいたかのような、ちょっと現実離れした美しさがある。「うつしみ」というやや古風な単語の選択も、生を強調するというよりも耽美性に奉仕していると思う。ボリス・ヴィアンの小説『うたかたの日々』に出てくる胸から睡蓮の花が咲く奇病を思いだす。この上句は奇妙で綺麗であると同時に、身体が培養土にされてしまったようなこわさがある。身体のために飲んだ薬が身体ではなひらく。下句のテレビと部屋の関係のぐらつきのように、ここでは身体と薬の役割が裏返ってしまったようだ。

 

再放送のような部屋、身体ではなひらく薬、いっけん穏やかな一首の表情とは裏腹に、刹那的、捨て鉢、といってもいいくらいに自らを明け渡しているのを感じる。この世のどうしようもなさへの偏愛。個人誌のなかにはこういう歌もあった。

感情はがらくただよね ひだまりの蓮をゆめみてはしるバスたち

この上句にはちょっとぎょっとしてしまうのだけど、下句のかぎりなく安らかな、だけどなぜかとても無惨な印象も抱いてしまう楽園は、感情ががらくたであると言い切る荒涼の先にある光景なのだと思う。蓮の根が穴だらけであること、花や葉の下が不安定な水面であること、その水中の暗さ、書かれていないことばかりが脳裏をちらついてしまうのだけど、歌をなんど見直してもバスたちはおっとりとかわいく走っていて、不思議な歌だなぁと思う。そして、がらくたは廃棄されないだろう。この退廃的な世界観のなかでは、さまざまながらくたが、がらくただからこそ慈しまれているのがみえる。