その昼はパンと饂飩を食べながら腹八分目あたりで泣いた

山川藍『いらっしゃい』(角川書店、2018年)

 


 

友達の産んだばかりの子のしゃっくりが聞こえる電話の奥 いらっしゃい
このような息子が欲しいうたた寝の父を携帯カメラで写す
火葬場へ向かう猫入りダンボール「糸こんにゃく」とあり声に出す

 

この世にようこそ、「いらっしゃい」。というふうに読むべきなのだとしたら、この人はちょっとズレている。ズレているからだろうか、この「いらっしゃい」は、この息苦しき世界にようこそ、という皮肉にさえ聞こえる。

 

ふつうはこういうときに「いらっしゃい」を使わない。なにかを迎えるときに言うことばであるという点において読者はこのニュアンスを読み解くことができるけれども、この一首の文脈上は、これをふつうは使わない。

 

言語教育について僕が学んでいた20年くらい前には言われていたことだけれども(今はどうなっているかわからない)、言語教育においては、「正確さ」と同時に「適切さ」も意識しなければならない、という。すごく雑でやや問題も生じるたとえなのだが、ごくわかりやすい例で言うと、たとえば日本語において、自分よりも目上の人がペンを落としたときに、「ペンの落とすましたよ」と言えばこれは文法上の「正確さ」の点で誤っている。それから、「おい、ペンを落としたぞ」と言ったら、ご丁寧に「おい」という呼びかけまでつけて注意をちゃんと引いて、しかも文法上もなんの誤りもないのだけれど、相手が目上であるという点で「適切さ」が問題になる。せめて丁寧語で話そうよ、ということになる。ことばの上で「正確」でも、使用する場面・文脈を考慮すれば誤っている、ということ。つまり「適切」ではない、ということ。

 

ただ、この種の問題を「問題」とするのは、それを問題とする側の、ときに非寛容で差別的な感性や思考による場合もあるので、慎重にならなければならない、ということはまずつよく断っておく。(それでこの「慎重にならなければならない」あたりが今日の話題の中心になります。)

 

もし「正確さ」「適切さ」ということで判断するなら、その「適切さ」の点でちょっと驚くというのがこの「いらっしゃい」だ。同じような驚きを「携帯カメラで写す」「声に出す」あたりにも感じる。というか、そのあたりの驚きというのは、その強弱や緩急はありつつも、この歌集をとおしてずっと見受けられるものである。けれども一方で、

 

わたしにも反省すべき点はあるなどと思った瞬間に負け
いらっしゃいませが言えずに泣いたことあるから人にやさしくしたい
持ってきてなんか配る気なくなって一人で食べる蒟蒻ゼリー

 

あたりには、たいへんに〈常識〉的な気分があらわれていて、この地平に上の「いらっしゃい」等もあるのかなあと思うと、そもそも読者としての僕自身の感性も疑いたくなる。最初に挙げた「いらっしゃい」等の歌を読むのに「適切さ」という補助線など引けるのだろうか、ということ。そして、

 

障害者用トイレから父に電話する電話しようかと言われ断る
つまらない人間ばかり集まっている会場でいちばんのデブ
「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて
餌をやるこれは家族というよりは玩具か育たない赤ん坊
才能のない人はいてそれはもう生き方だろう近づかないで

 

といったあたりについてなのだが、ちょっともう、自他に対する差別さえ読み取れそうな感じもしてきて、僕は読むのに苦しむ。あえて使用した「適切さ」という評語によっても到底評することができないような息苦しさを僕は感じる。「障害者」「デブ」「無職」「玩具」「育たない赤ん坊」「才能のない人」に対する読者としての態度を試されている気がする。なにかが突きつけられている。それをこの主体の感性にゆだねて語るとすれば、つまり「この主体って〇〇な感性の持ち主ですよね、だからこの文脈でこういった語を差し出すのですよね、表現上の必然性がありますね」などと言ったら、それは読者としての逃げなのではないか、という気もしてくる。いや、そもそもここで言う「障害者」「デブ」「無職」「玩具」「育たない赤ん坊」「才能のない人」が、「いらっしゃい」と言った主体にとってはどのような〈価値〉をもったものとして認識されているのか、僕はまだ理解しきれていない。価値中立的な、単なる記号なのだろうか。このあたりには、歌集をとおした、非常に繊細な読みと議論を迫られる気がする。

 

というふうに語りながら、やはり僕自身がなんらかの〈常識〉にとらわれているのだろうなという気がしてくる。……とにかくまず、ずっとこの「障害者用トイレ」がなんの喩なのか、なにか含意があるのか、それともないのか、含意があるとして、その含意を読む読者とはいったいどんな思考や感性をもった読者なのか、といったことをずっと考えている。

 

とても書ききれていないし、逃げまわりながらの評になっているけれども、とにかく歌集『いらっしゃい』は、ただ笑っているのでは済まされない、ものすごくラディカルな問題作なのではないかと思う。読者の思考や感性が試されているというか、読み方によっては、やたらと内省を迫って来るようなところがある。〈常識〉とか〈ズレ〉とかいったものが本当に〈常識〉や〈ズレ〉なのか、それを〈常識〉あるいは〈ズレ〉と判断する読者の思考や感性はいったいなにを根拠としているのか、どんな〈常識〉にからめとられているのか、といったことをどうしようもなく考えさせる歌集なのではないか。そのあたり、主に特徴的な句跨りの頻発などにはっきりと見えてくる、『いらっしゃい』に独特の定型感ともかかわらせて考えたいところなのだけれども。

 

今日の一首。「パンと饂飩」の「炭水化物+炭水化物」が、妙にせつない。泣くということの背景にあるのが「パン」と「饂飩」であるということが、滑稽でせつない。けれども、これを「せつない」と言う自分はいったいどんな思考と感性で「せつない」などと言っているのだろうかと、僕はなんだか落ち着かない気持ちでもいる。「パン」と「饂飩」を同時に食べているこの人を、「せつない」の一瞬前に、僕はどこかで笑っている。その笑いは、いったいどんな種類の笑いなのか。このあまりに聡明でズレていてしかもそのズレを自覚していそうな主体のもと、まさにその「自覚」ということによって、読者である僕は笑うことを許されているようだけれども、だからってなぜ僕は笑うのだろう。この歌はこの歌集の最後の一首で、そのほんのわずかな笑いのあとのせつなさによって、なんとなくしんみりとした気分で歌集を閉じそうになったけれど、閉じたすぐ次の瞬間に、なんだか怖くなって、また歌集をめくり始めてしまう。そのあまりにも個性的な主体を追うためではなく、この主体と対峙したときの自分の心の動きを追うために。それは、怖いもの見たさ、に近い。怖さの先に、自分がいる。本当におそろしい歌集だと思う。

 

辞めたさの話をすればむちゃくちゃにウケられているわたし、噺家
関東の冗談なのか失礼なだけかわからんけど笑わんよ/山川藍