男の子はチョコレートパフェを食べてゐる 地に下ろされた鯉のしづけさ

都築直子「雨が来るまへ」(角川「短歌」二〇一八年七月号)


 

連作中のほかの歌〈屋上と屋上のあひにはりわたす綱びりびりと鯉のぼりおよぐ〉を踏まえると、この歌に出てくる「鯉」は川や池にいる生身の鯉ではなく鯉のぼりのことなのだけど、一首だけでみたときにぱっと決め手がないことがこの歌に不思議な引っかかりをもたらしている。鯉が「水から上げられる」ことはあっても「地に下ろされる」ことはないのではないか、という小さな疑問のあとに、「(水から)上げられたあとで(地に)下ろされる」可能性に思いあたって、ああ、と思う。その気づきのうしろでは男の子がスプーンを上げ下げしている。その動きは、鯉が地面をたたく尾ひれまで想像させる。なるほど鯉のぼりのことか、という答え合わせ的な気づきのほうがインパクトが弱いくらいなのではないだろうか。
水中にいる鯉と、空中にいる鯉のぼり、真逆の存在のようで、両者にとって「地面の上」だけは不本意な場所であることはおもしろい。地面という共通の敵の発生によって水中と空中の鯉は手をむすび、その協定の外側で男の子はチョコレートパフェを食べている。土や泥に似た色のチョコレートパフェを食べるのは、地面を崩す作業を連想はさせるけれど。
この歌に物語のはじまりはない。なにかがはじまってからはずいぶん時間が経っている、という感じだし、終わりの気配のほうはかすかにはらみつつ、歌のなかには終わりもない。なんというか、「終了十五分前から終了五分前まで」くらいの、非常に中途半端な場面が切り取られ、それは独特の気怠さを生んでいる。男の子はいつ食べ始めたのかわからないデザート、またはおやつに取り組んでいる。食べ終わりもみえないけれど、どのみちそれほど食べるのに時間がかかる食べ物ではない。

 

「男の子と鯉のぼり」のふたつを切り出したときに意識されるテーマの筆頭はジェンダーだろう。そのイメージにしたがって、たとえば、男の子と「男の子的でないもの」としての「パフェ」とのあいだの摩擦、あるいは和解を読みとろうとするとき、下句の鯉の姿の、不本意な場所にいる軋みなのか、あんがい安らかさなのか判然としない描かれ方は比喩として機能しない。あるいは、「男の子と(生身の)鯉」を切り出した場合は、どちらも食欲旺盛なイメージがあることによって生き物の本能の話へと連想が働く。出会いかたが違えば捕食者と被捕食者にもなりうる男の子と鯉は、しかしこの歌では一字空けを挟んでそれぞれの営みを全うしているだけだ。
「これがテーマだ」と言わせることを徹底して迂回するこの歌は、そもそも下句を上句の比喩=「男の子は鯉のようなしづけさだ」として読めばいいのか、それぞれがべつの描写なのかを判断するのも難しく、偶然ひとつのフレームに入ってきた対等なふたつのものとしての響き合いを読むほかない。だけど、わざとはぐらかしているわけではなく、この歌の場合はむしろ寓意への無防備な接近が迫力なのだと思う。その無防備さによって、一首の作為のなさ、偶然の美しさが透きとおる。ふたつの場面のもつれのおもしろさはそこから豊かに生まれるし、上句の「男の子」と「チョコレート」、「パフェ」と「食べて」、それぞれ対になっているような音のはずみをたのしく聴き取ることができる「しづけさ」を下句が提供することもまた。