染野 太朗


彼はかつて孔雀の羽に火葬場の夜を隠した じっと視ていて

安井高志『サトゥルヌス菓子店』(コールサック社、2018年)

 


 

物語を感じるようで、結局は感じられない。「かつて」という語は、「夜」が隠されてからのある程度の時間の経過を示し、それと同時に、「彼」にはそのときそれを隠さざるをえない事情があったのだ、といったことをほのめかす。けれどもそれがなんらかの物語を呼び込むかと言えば、そのようには思えない。「孔雀」「羽」「火葬場(あるいは「火」)」「夜」「隠す」はそれぞれ、なにか別の具体を指している比喩なのだろうと思わせるような、象徴性の高い語であると思う。「鳩」と出てきたら自動的に「平和」を思う(いや、鳩=平和ってだいぶ古典的だしふつうはもうそう思わないものかもしれないけど、わかりやすく言うと)ようなあの感じ。たとえば「火葬場」は、ごくごく単純に、ただちに「死」ということを想像させる。しかしそれらの語がこういうふうに組み合わさると、そういった象徴性を読者が安易に導くのを拒むようなところが出てくる。だからそのそれぞれを、象徴性から切り離して、物語世界のアイテムとして、観念でなく具体として扱おうとするのだが、今度はしかし、そもそもの象徴性の高さが、短歌という〈省略〉の器において、そのように扱うのを妨げてくる。短歌という器だからこそ、象徴性を引き込みやすい。さらに「彼」という語はどうしても、それが代名詞であるゆえに、なんらかの文脈の前提があるからこそそれを受けて配されたもののように思えてしまう。けれどもやはり、上に挙げた語の象徴性の高さが邪魔をする。具体と観念の、とても繊細でかつ粗っぽい拮抗が、四句目までを統べているように思う。

 

ところが、そんな僕の個人的な感覚ははなから期待されていないかのように、結句でふいに聞こえる声は、「視ていて」と言う。この漢字が当てられているから、やけに鋭い視線を意識する。視てい「て」、は実はすごく厄介だ。「彼がなにかをじっと視ていて、その結果夜を隠した」などといったようにも「彼が夜を隠した。(だから)あなたはそれをじっと視ていなさい」といったようにも読める。前者においては、この結句は地の文のつづき・上の句からの倒置表現であり、なにか(あるいは「孔雀の羽」か「火葬場の夜」かもしれない)に対する彼の視線をしずかに浮上させる。後者だとしたら、この結句はだれかの声。おそらく彼以外の、あるいは語り手の声。読者に対して「視なさい」と要求をする声だろうか。眼差しの固定を要求している。孔雀のあのきらびやかな羽は、ただ明るい色によってのみつくられているのではなく、しかもただ紙にベタ塗りされているようなものでもなく、もちろん立体的で、角度によって異なる光を反す。だからこそ、いかにも「夜(闇、影)」を隠せそう、隠していそう、と思う。だとしたらこの「彼」って、「創造主」かなにかなのだろうか。けれどもそういった想像を、この結句はやはりすぐにかき消してしまう。「創造主」と言い切るには根拠が足りない。具体を引き寄せて読もうとすればやはり恣意が先立つ。結果的に、「じっと視ていて」によって現れた「彼」の凝視だけが、あるいはそのように要求される何者かのそののちの凝視だけが、孔雀の羽の色彩や光の感じとともに、夜のなかで(重たく)意識される。視てい「て」、において決定的に曖昧さを引き寄せてしまう一首の意味内容と、具体と観念の拮抗によって十分には引き寄せられない物語が、罪になる直前の、罰を受けるまでには至らないなんらかの禁忌の気配を一首にまとわせる。あるいは、禁忌その他の〈価値〉にまつわるイメージのいっさいを退けて、視線さえ問題とされず、「孔雀の羽」や「火」や「夜」の色彩だけが浮上しているのかもしれない。

 

ぼくたちは忘れないだろう夕立の立ち去る音が聞こえる本を
缶切りのための音楽 天気雨そそぐ湖底に腐ってく靴
耳を塞ぐ夜のはじまり洗濯機よわたしはしずかな雨になりたい
そして風景は砕けた目に眩しいキスゲが海へ身を投げる崖で
三つ編みよ 秋はおまえをなぶるのだたたくのだぶつのだあばくのだ
銀いろの針金こゆびに巻き付けて きいて きのうは空をとんだの
ひとつずつ月をあおぐとひとつずつわたしは崩れていなくなってしまう
乳液をなじませる夜、ねたみとはいたわるように撫で回すこと
祈りなさいあなたは朝にいるのですよ青いさかなの透明な骨
少年が海へ飛び込む雪の日 木造校舎にみちる合唱

 

安井高志は1985年生まれ。2017年4月、事故により亡くなったという。『サトゥルヌス菓子店』は彼の唯一の歌集で、遺歌集である。