鏡には光がうつり美容師の話のなかでだけ会う女の子

黒﨑聡美『つららと雉』(六花書林:2018年)


 

美容院に行くといろんなことを聞かれる。あれが嫌だという人が多いのもうっすら知りつつ、わたしは個人的にはいろんなことを聞かれるのはべつに嫌じゃない派なので適当に答えるんだけど、なにぶん会話の韻律重視、意味は度外視、という感じで適当に答えているので自分の回答をあまり覚えていられない。だけど、向こうも客商売なので、数か月後に同じ美容院に行ったりすると前回の話をちゃんと覚えていてくれて、「あの旅行どうなりました?」とか「彼氏と仲直りしました?」とかふたたびいろいろ聞かれる。わたしにはすでになんの心当たりもないのだけど、仕方がないのでまた即興で話を継ぎ足す。面倒なのが、「徹底して嘘をつく、自分の個人情報は出さない」と決めているわけでもなく、リズムさえ合えばほんとのこともぱらぱら答えているので、余計にあとから話を統合しづらい。それを続けているうちに、この場所での「わたし」のキャラクターの全貌がみえなくなってしまったことをちょっぴりもったいないと感じながら、わたしは今後も同じ美容院に通い、質問には適当に答えつづけるんだと思う。
掲出歌が言っているのは基本的にはそういうことだと思う。つまり、下句の美容師の話のなかの「女の子」は、この場にしかいないバージョンの自分自身であり、その希薄さと呼応するように、自分を正確に映すはずの目の前の鏡に自分が映らない、光だけが映っている。「美容師を通して噂話をよく聞くものの本人には会ったことのないよその女の子」という読み方もできるけれど、「鏡」からはじまる一首の、しかも「会う」の親しさを読むかぎり、仮にこれがよその女の子だとしても自分を投影するものだろう。この「女の子」は、「わたしだけどわたしじゃない」と「わたしじゃないけどわたしだ」のあいだにいる。もっとも、みんながみんな美容院に行くたびにでたらめな回答で場をつないでしまうほど適当で無責任な性格だとはかぎらないので、「嘘はついていないはずなのに、これが本当の自分かと問われると微妙なずれがあるような」という程度の違和感のような気もするし、違和感のサイズとしてはそのくらい小さいほうが歌のなかで鋭さが際立つとも思うけれど、とにかく基本路線は「虚偽の自分」だ。
人は場によっていろいろなペルソナを持っているものだけど、メインのいくつかの役割にあまり干渉してこない細々した、しかし無数のペルソナは、ある程度溜まるとキャッシュ扱いで勝手に削除されていくもののような気がする。掲出歌はいわば人格システム内のその死角に光をあてる。目の前に鏡が置かれていること、髪型の変更=きわめて表層的な意味で「あたらしい自分」を得る場所であること、ペルソナを意識しなおす場所として美容院はとてもふさわしく、印象的なロケーションだ。
テーマ的には自意識がつよい歌かと思いきや、この歌は感情をほとんど感じさせないところもおもしろく、光を反射する鏡のイメージからか一首の基調はあかるい雰囲気だけど、(鏡のなかの)自分の不在に対しても、話のなかの虚偽の自分に対しても、天気の話でもするようにたんたんと描写していて、「それらに対してなんの感想もない」という印象。風通しのいいこの一首は、呼び水のように読者にもいろいろな自分がいることを思いださせられる。「人」の輪郭がほつれだす感覚が心地いい。

逃げ水にむかってアクセル踏むときの遠のくようなわたしの横顔
汗ばんだ額にふれてそれからの押し寄せてくる街路樹の緑
地面まで枝をのばした金木犀の空き家の気配に足踏みいれる
雲に雲が重なりあって話すことをすべての人がやめたみたいだ
路面より幼くなってうつりこむミラーのなかのSTOPの文字

掲出歌の「鏡に光が映ること」「美容師の話のなかで女の子に会うこと」がそうであるように、描写っぽい部分と比喩っぽい部分に切り替えがなく、平坦にひとかたまりの感覚として書かれることで異常事態を感じさせる歌たち。『つららと雉』最近読んだなかでも附箋がよく減った歌集でした。