染野太朗


棄てられし自転車にしておのずから錆びたる鉄の究極を目指す

西川才象『晩冬早春』(六花書林、2018年)

 


 

歌集のはじめのほうの歌をすこし鑑賞します。

 

一人への想い次第に薄れゆき今は真水のごときを湛う

 

「おもい」「しだい」の「oi」「ai」という音の連なりが海の波みたいに揺れて感じられるな、と意識しながら読んでいるとその海水が「真水」へとふいに変化してしまう。想いが薄れる、ということを思うときふつうは「なにかが無くなる」「からっぽになる」といったイメージが浮かび上がると思うのだが、ここではそうではなく、「真水のごとき」ものがそこに湛えられる。この「真水のごとき」ものはいわゆる〈こころ〉の喩だ、それで、なにか特定の気持ち・想いが水に溶け込む色やにおいや味にたとえられているのだ、と言えばそれまでなのだけれども、誰かへの想いが薄れていったその先に残っているそれは、結局なんなのか、実はよくわからない。「真水のごとき」としか言いようのないもの。それが僕には妙にリアルなとらえ方として感じられた。たしかにそういうときって、なにもかもが消えてしまってからっぽになるというわけではなく、なにかが残っているような気がする。それをこの歌によって発見し、自覚させられたような感じ(いや、この歌にそのように思い込まされただけだろうか。やはり言葉の〈分節化〉というようなことを思う)。〈こころ〉ともあるいは〈意識〉とも名付け得ないような、人間のある領域が指し示されているように思う。

 

汗の臭いすさまじきとき神託は下る己を見つめよとこそ

 

カ行やタ行の音はやっぱりフィジカルに強く響くな、と思う。「見つめよとこそ」という口調も強い。その強さはそのまま、その「神託」が要求する、自らを省みる視線の強度にも重ねることができる。自らの汗の臭いでたしかに、自分の身体への意識は浮上してくるから、「己を見つめよ」という認識に至った点にも、独特ではあれ説得力があるように思う。身体の感覚、ということの説得力。それにしても「自分、臭いな」で終わらずに自省の眼差しをも意識するところには迫力がある。

 

運動会の朝にも花に水をやる彼の務めの清々しけれ

 

「運動会」という非日常の特別のイベントのとき、日常のルーティンは忘れられてしまったり、それはしなくてよいということになったりもするわけだが、「彼」はそれをしたのだという。こういうときの水やりの人がまとう空気感、「清々しい」とまでは思っていなかったけれど、わかるなあ、と感じた。運動会にあっては、花への水やりのほうがむしろ非日常なのだ。「運動会」が水やりということの質感とそれをする「彼」という人物の本質のようなものを照らす。そしてそれがまた「運動会」なるものの感じを照らし出す。

 

今日の一首。長く棄てられたままの自転車の金属部分の、あのものすごい錆の感じ。それがまず想定されてある。それを、錆びたる鉄の「究極」、という硬い音と大仰な表現で指し示す。そこへ向かってこの「自転車」のこれからの時間が流れていく。なんだか残酷な把握の仕方だと思う。「目指す」には(あるいは「おのずから」にも)自転車を擬人化するようなはたらきがあり、そこにはどこか滑稽さもにじむ。……いや、最初に読んだとき僕は、残酷さしか感じられなかった。うち棄てられて錆びていく自転車がかわいそう、とかそういうことではなくて、擬人化しておきながら感情移入はせずにモノをモノとしてしか見ていないような眼差しが感じられて、自転車の望む望まないにかかわらず「おのずから」「目指す」と断言されていて、それを残酷と思ったのだった。