平岡 直子


さかむけをちぎり取れない たくさんの水をかければ動かぬ歩道

井口可奈「たぶんサワークリーム」(2018年)


 

文学フリマで買ってきた「たぶんサワークリーム」というタイトルの個人誌から。この冊子は俳句、掌編小説、短歌のセットが十五セット入っている。「セット」と呼んだのは、ひとつの見開きごとにこの三種類の作品がひとつずつ配置された構成になっていて、同じ見開きに載っている作品は、明示されてはいないもののテーマがゆるくつながった題詠的な作品だからだ。見開きごとに題がひとつとジャンルが三つ。たとえば掲出歌と同じ見開きにある俳句は〈小春日や動く歩道が動いている〉で、小説も動く歩道の上の通行人を鳥に見立てた話、という具合に。そして、このセットはきれいにバランスよく三位一体というか、どれもちょっとずつおもしろくて、作者と突出して相性がよさそうなジャンルや、逆に足を引っ張っているジャンルが見受けられない。「いろいろやってる」のに「均等におもしろい」のは珍しいことだと思う。それでもグラデーションはあって、短歌のなかでは掲出歌がいちばんおもしろいと思うけれど、たとえば俳句は〈七五三みずうみに放てば民話〉とかが(でもこれって俳句なの?)、小説は抜粋すると〈星からジンジャーエールが流れ出てきたら、うれしい〉とか〈また頬骨に鳥が止まった。きょうは鳥が多い〉とかがよかったです。
掲出歌は、指先の小さな身体感覚と、大きな都会の通行システムが取り合わせられた一首。これがまた上下どちらもちょっとずつおもしろくて、それぞれの大雑把で妙に力づくの発想には、「なにもちぎり取らなくても」「どうして水をかけようと思ったのか」と突っ込みたくなってしまう。
この歌は「動く歩道」をどこか生き物のようにとらえている印象がある。「水をかける」のは植物や、道端で弱っている生き物を蘇らせようとしているような動作だ。「観葉植物に水をあげすぎると逆に枯れてしまう」とかの話をしているような言いかただけれど、水をかけたら動かなくなるのは「動く歩道」が生き物ではなく機械だからで、水をかけたら壊れるからだと思う。相手を生き物として扱うことが、結果的にその生き物性を奪ってしまう、皮肉な帰結がちょっと滑稽で切ない。
結句の「動かぬ歩道」にもひとくせある。ここは第一には「動く歩道」という名詞の一部を裏返しにしたこの場かぎりの造語で、第二には「動くはずの『動く歩道』が動かないこと」の形容であり、その二つの役割を分け合っている部分だ。しかし、その二つの役割の切れ目から立ち上がってしまうのは、「動く歩道」には関係のない、「歩道とはそもそも動かないものである」という事実である。「動かぬ歩道」というパロディから話がはじまっているせいで、元ネタの「動く歩道」の接着が弱まって「動く」と「歩道」それぞれに戻ってしまう。「動く歩道」以前の世界が見え隠れする。
不思議なことに「動く歩道」よりも「動かぬ歩道」のほうがより生き物っぽいのも、このような「動かぬ」の多義性によるものだと思う。そして、だからだろうか、この「動かぬ歩道」は水をかけられることで息の根をとめられていない感じがする。これから動きだすポテンシャルを抱いたままの、仮死状態の歩道。
一首のなかのふたつのモチーフ、「さかむけ」と「動かない歩道」はある進路への軽いブレーキ感によって響き合うけれど、下句の歩道にけっきょくある種の生命力を感じるとき、そこから見あげるさかむけのつよさにも気づかされる。さかむけはそもそも身体の一部であり、たぶん身体の一部でありつづけようとしているのだ。さかむけをちぎりとろうとするのも、機械に水をかけるのも、ともすればかなり乱暴な力の行使だけど、この歌では「こっちもつよいがあっちもなかなかしたたか」という力の拮抗があかるい。
サワークリームおいしいよね。

 

手でぴゃっぴゃっ
たましいに水かけてやって
「すずしい」とこえ出させてやりたい/今橋愛