きみが見えない どんな窓もきみを見るとき鏡になって

石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』(短歌研究社、2017年)

 


 

どういうわけか最近僕は石井の歌についてあちこちで書いたり話したりしている。特別に好きというわけでもないのにこれはいったいどういうことなんだろう、とあれこれ考えた。それでなんとなく思い浮かんだ理由がふたつある。ひとつは、石井の歌というのは、方法に対する意識が妙に高くて(作者本人にその自覚があるかどうかは別にして)、しかもその工夫が目立つ形であらわれていて、それが、技術とか方法の面から歌を眺めるのが好きな僕自身に合っているからだろう、ということ。それから、もちろん僕は歌の内容についてあれこれ(感傷的にもあるいは感情的にも)解釈したり鑑賞したりするのも好きなわけだが、石井の歌は、内容が普遍的で青くさく、しかも(だから)観念的抽象的なところがあって、その「普遍的で青くさく」というところがまずどの世代(世代、という言い方は乱暴だけれども)に対しても話しやすく、そして「観念的抽象的」というところが僕の(感傷的感情的な)読みをきもちよく誘い出してくれるからだろう、ということ。だから、なにかを書こうなにかを話そうという前提で読むとき特に「石井のあの歌を引用すると書けそうだ」とか「そういえばあの歌について考えようとしてそのままになっていたしせっかくだから話そう」とか、石井の歌に僕は接続してしまいやすい。けれども石井のその、工夫が目立ってしまう、というところに、僕自身は一読者としては落ち着かない気持ちにもなるので、石井の歌に対して好きだとか嫌いだとかそのどちらでもないとかいうふうに言うまでにはまだ至っていない。

 

ネクタイは締めるものではなく解(ほど)くものだと言いし父の横顔
あのパレードの紙吹雪だってもとはぜんぶラブレターだよ、降る片想い
花火のあとの火薬のにおいがまぼろしだと気づくまできみのことを抱きしめた
暮れるわたしが放った石は水を切り、水を切りやがて沈む途方に
みずうみで足を洗えば永遠に汚れてしまうみずうみだろう
肺臓、と言っても水浸しの 救済は火炎瓶のような右手の不透明さ
初めから異邦の、不眠症の兎の、寝息は遠くほど細りゆく絹糸
生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!

※( )内はルビ
/石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』

 

たとえば〈ネクタイは~〉の歌は、「締める」と「解く」の違いを読み解くところに読みの快があって、しかも、人間関係の歌としても歌の作り方としてもオーソドックスで感傷を誘うところがあるし、それからたとえば〈みずうみで~〉の歌は、これが本人の「足」なのだとすれば、そこに軽い罪の意識というか自己卑下というかを読み取るときそれは普遍性のある感覚で、それが「永遠」という語に支えられながら認識されているあたりには、僕は、若さというか、青くささを感じたりもする。(まったく関係ない話だが、僕は〈生きているだけで~〉をあちこちで引用しすぎて、「!」の数が刷り込まれてしまい、歌を読むときその数字まであたまに浮かぶようになってしまった。「ポイント」のあとが9つで、「倍」のあとが10です。)

 

方法ということで言えば、

 

白長須鯨の心臓のどくと鳴る海から我の夢まで近し
薄き羽畳みて蝶は墓のうへ罪人は墓のまへに休めり
薔薇といふ語彙に始むる詩を編めば詩人の空に薔薇の降り積む

/石井僚一「自死と不死の等しき部屋」(「現代短歌」2018年5月号)

 

といった歌も最近石井は発表している。

 

今日の一首。普遍的で観念的だと思う。そして青くさいと思う。他者とは自分の〈鏡〉である、と言っている。あるいは、どれほど努めても自らの主観のうちでしか「きみ」を見つめることができない、と言っている。それを自覚している。他者は自分の〈鏡〉だ、というのは人間の本質・真理に触れようというときに、あるいは主観と客観の話をしたりするときにいくらかでも触れられるようなこと。これがまず「普遍」であり「観念」であると思う。ただ、これを自覚し言語化するというあたりのありようというか、エネルギーというのを、僕はとても青くさいものと感じる。若さ、ということを思う。青春性、などとも言いたくなる。こういったことを改めて意識に浮上させるありように青春性を感じる、ということ。歌の前半の字足らずの感じが、内容に寄り添うときに喪失感や不全感を引き上げてくるあたりも、方法(技術、工夫)として読めばとてもわかりやすく、読み手をみちびいてくれる。「鏡になって」という言い差しの結句もなんだか感傷を誘う。

 

というふうに書きながら思うのは、石井の歌は、あまりにも愚直に人間やその生(という言い方が大げさだとしても)の本質に触れようとしているのだなということ。ひりひりする、というのはこういうことなんじゃないか。『死ぬほど好きだから死なねーよ』を「青春歌集」などと言ったら作者本人は怒るかもしれないけれど、青春性、ということをどうしても思ってしまう。青春性、という評語を読者に意識させないまま遠景としてのそれをちらつかせていたり、(現代的な)人間の生の本質を(現代的な)手触り・臨場感とともに差し出そうとする〈新しい歌〉は実は今すごく多いような気がするけれど、ちゃんとその〈青春性〉という語をそれのみでなつかしいほどにこれでもかと意識させる歌として、石井の歌は「ひりひりする」ということの王道をいっている感じがする。ところで、現代的、ってなんだろうか。それから、石井の歌は、と一般化してしまうのはやっぱりちょっと危険だなと書きながら思った。