平岡 直子


藍よりも愛はつめたし 夜の窓を右舷となしてきらめくピアノ

井辻朱美『コリオリの風』(河出書房新社:1993年)


 

涼しくなる歌を探してきました。最初は安直に「雪の歌」を探したのだけど、いづくより生まれ降る雪も、雪まみれでふる頭も、あはれむやみにあかるい雪も、あるいは掲出歌と同じ井辻朱美による〈欄干に雪のふちどりこの夜はなんという劇の幕間であろう〉とかもいい歌だと思いつつ、こういった歌はドライアイスを掴むときのような熱さが先に立ってこちらの手が灼かれてしまいそうで、雪はやめました。掲出歌は芯までつめたい歌、読むだけでひやりとした質感を感じられる一首ではないだろうか。
藍よりも愛……あまりに安直な言葉遊びのようだけれど、まずここに踏まえられているのはあのちょっと詩的な諺「青は藍より出でて藍より青し」だろう。ならば、愛は「青」の変奏であり、そして同時に愛は藍から発生したものだ。こういった連想を経由すると上句はみためよりも長く、「あい→あい」の単純な音の類似を太く肉付けする。藍から発生しておいてすでに藍よりも冷たいのだとしたらこの「愛」には加速度的に冷えていく性質があるのだと思う。それでもそもそもなぜ藍や愛が「つめたし」なのは謎ではあるけれど、その謎は一首を詩にする核でもあるところだ。
下句はあるひとつの具体的な光景を上句に添えるものでありながら、一歩間違えればまとまらないような、すでに一歩間違っていて崩れかけているような危うさを秘めている。具体物は窓とピアノ、時間帯は夜。窓に右舷、つまり船の一部が見立てられているけれど、窓の内側=部屋が船なのか、窓の外側の空間が船なのか、ピアノ自身が船なのか判然としない。「右舷」だけが示され、半身しか存在しないかのような船も奇妙に不安定だ。ピアノにとって窓が右舷である、ということだけがきっぱりと言いきられ、ピアノが夜の海をしずかに渡っていくような不思議なイメージへと漕ぎださせる。
壊れかけのまま凍りついたようなこの下句は、上句のミステリアスな「つめたし」をさまざまな方向から刺激する。窓ガラスや海の皮膚感覚的な冷たさ、夜空や夜の海のそれこそ藍色の色合いの冷たさ、そしてピアノの精神的な冷たさ。このピアノは、音を鳴らすという本業とも、奏者とも無縁だ。ピアノに光源はないのでこのきらめきはおそらく反射光だけれど、自発的に発光しているかのようにきらめきをこぼしつづける。その姿に「愛」というひとつの方向性があたえられるとき、「つめたし」がピアノのその不如意と孤独を指摘し、「愛」の定義へと持ち帰ってくる。
愛の冷たさには手を触れられない。そして、冷たいのだろう、と想像するほかないものほど冷たいものはない。