平岡直子


屋外は現在、屋内は未来、中庭は過去、につながりて夜の秋

松平修文『トゥオネラ』(ながらみ書房:2017年)


 

タロット占いのような歌だなと思う。この位置のカードは現在のあなたを、この位置のカードは未来のあなたを意味しています。おや、これは不吉なカードですね……
その印象は、一首が過去から未来へのひとつながりの時間の流れを建物に見立てる、という作りになっておらず、時間の流れと場所の示し方がともにそれぞればらばらなところからくるのだろう。時間は流れず、建物の全体像は浮かばない。それでも、屋外/屋内は対比的だし、そこに現在/未来が当てはめられるのは(屋外のほうが現在というのは一般的なイメージからすると逆のような気もしつつ)理に落ちなくもない。〈扉(ドア)の向うにぎつしりと明日 扉のこちらにぎつしりと今日、Good night my door!(ドアよ・おやすみ!)/岡井隆〉とかを思いだす。
一首を迷宮にしているのは「中庭は過去」だ。「中庭」という場所の不思議な魅力は周囲を建物に囲まれている不自然さ、屋内にある屋外、と呼びたくなるようなバグっぽさにあると思うけれど、この「中庭」が一首のなかで屋外/屋内のはざまにあるもの、たとえば岡井隆の歌でいう「扉」そのもののような役割を担うかというと、そういう構図からはわりとはみだしてしまう。中庭は、なんというか屋外/屋内の対比からはやや離れた場所にあるもの、という感じがするし、語彙としてのモードがすこしずれている印象は、むしろ構図を乱すものだと思う。この中庭のはぐれかたによって、一首はぐっと奇妙な魅力を保っている。
タロット占いのような歌、という妄想を転がして意味のない占いをしてみよう。短歌の初句は現在、二句目は歌の未来、三句目は歌の過去につながるのだと。たとえば、たまたまいま開いたアンソロジーから〈サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい/大滝和子〉を引いてみるけれど、初句はつねに現在だ。この歌では、初句として発語されることで発生するサンダルという「現在」が、〈青踏みしめて〉と未知の方向に展開する。そして三句目は、「サンダル」で歌がはじまる前から〈立つわたし〉が存在していたことの種明かしだ。三句目にあらわれているのが歌の過去なのだ。
アンソロジーを遡って、たとえば〈赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり/斎藤茂吉〉、あるいはたとえば松平修文自身の歌〈展翅板にカラスアゲハを止め終へて最後とす 真夜中になりをり〉をあてはめて読んでみようか。さっき書いたとおりこれは意味のない占いだ。そういうふうに読もうと思えばいろいろな歌がそういうふうに読めるし、そういうふうに読もうと思わなければ読めない。短歌の鑑賞のほとんどがどのみち占いのようなもので、それらにくらべてより意味がないとは思わないけれど、それでも要するにこじつけだ。そしてこのこじつけが教えてくれることは、短歌の作りの多くは起承転(結)ではなく起転承の順番になっていて、三つ目の承は起や転を受けるわけではなく、起や転よりも前の過去を受けようとする、あるいは受けようとしているように読者にはみえてしまう、ということだ。膨大すぎる過去への雑な接続が起きることが、短歌の読みを占いのようにしてしまうこと自体の理由でもあるだろう。そのことを知ってしまっている掲出歌はそれゆえに初句以前の過去に接続されず、「中庭」はこの歌のなかではじめて生まれた中庭として空中に留まっている。
一首は最後まで油断なく、結句でも小さな身のひねりをみせる。夜の秋、時間の単位としては小さいほうの「夜」を大きい「秋」より先に置くことで、その大小が転倒したような印象を与える語順だ。年間を通したすべての夜がひとかたまりのものとして存在し、そのなかの一部として「秋」があるかのように読んで、「昼」や「朝」の欠落による模様を眺めるのもおもしろいけれど、上句の印象を継いで読むと、「秋」が時間ではなく場所を指す用語の側に渡ってしまったのだとも思う。