生沼義朗


松村由利子/平日のマチネー混めば東京はまだ大丈夫(なのか)日本も

松村由利子『光のアラベスク』(砂子屋書房・2019年)


 

時に応じて断ち落とされるパンの耳沖縄という耳の焦げ色  『耳ふたひら』
くっきりと光と影は地を分かち中間色のわれを許さず
二つ割りの白菜やがてめりめりと盛り上がりくる命恐れる
夜半の雨しずかに心濡らすとき祖母たちの踏むミシン幾万
小さい林檎小さい苺スーパーになくて小さい経済が好き  『光のアラベスク』
栗名月とやはり呼びたき明るさは栗の実らぬ南の島の
夏だけはたっぷりとある南島に陸自配備の種子が蒔かれる
パール・バック知らない若い人といて知識はそうね皺に似ている

 

前歌集『耳ふたひら』(2015年・書肆侃侃房)以来4年ぶりの第5歌集である。松村が2010(平成22)年から石垣島に在住しているのはよく知られ、『耳ふたひら』でも南島の地における生活をしっかりと捉えるところから詠い出していたが、『光のアラベスク』はさらに土地に根ざして詠う姿勢と覚悟が伝わってくる。

 

掲出歌は歌集前半の「鴨を数えて」一連9首の1首目で、滞在先の東京で観劇した際の歌。続く歌の

 

 

にっぽんの大気は湿度高きゆえ和製マクベス血なまぐさくて
四人目の魔女になりたしわろき野心抱えた王を滅ぼすために

 

 

から演目はシェイクスピアの『マクベス』とわかる。「マチネー」は芝居の昼の公演のこと。平日にもかかわらず昼の公演が混んでいるのは、おそらく仕事をリタイヤした年齢の観客が多いと思われる。経済的あるいは文化的にまだ東京は、そして日本は大丈夫と感じつつ、それは高度経済成長の恩恵を受け得た一部の世代だけではないのか。カッコで括られた「なのか」にはそんな意味も受け取ることができるし、もっと率直に胡乱と言わざるを得ない現状から見た将来への不安と取ってもいい。さらに一連は、

 

 

十二桁の数字届きて焼印を捺されたように背中が痛む
ジャン・ヴァルジャン五桁の囚人番号で呼ばれたあなた 日本も寒い
わたくしが焼かれる日まで付きまとう番号に好きな番号ないこと
どこまでも川は続くよ両耳に耳標ぶら下げ仔牛ら歩む
十桁の個体識別番号で母牛のことも雌雄も分かる
トゥール・ダルジャン鴨を数えて百年の歴史やれやれ焼き鳥喰らう

 

とマイナンバー制度への危機感へと移行してゆき、そこに『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンや現代の家畜管理などの具体例が重ねられる。最終首では、いきなりパリの高級料理店(東京にも支店があるが)が登場し、これは「ジャン・ヴァルジャン」からの連想だ。「鴨を数えて百年の歴史」は名物の鴨のローストを注文すると一羽一羽の鴨に付されたシリアルナンバーが打刻された証明書が渡されることを踏まえている。実際に店に行ったのではなく(過去に行ったことがあるかもしれないが)、焼き鳥を食べながらそのことを思った。社会的な時事を積極的に取りこむ手腕と展開のあざやかさはさすがの一言に尽きる。時事の事実と身体感覚が主に提示され、それが巧みに重ねられる奥に現象への疑義と批判がこめられるが、読者への押しつけがましさがないのは主観的な感情表現が極力抑えられているからだ。そうした松村作品の特徴が、短い一連にも端的にそして十全に発揮されている。

 

さらに科学の進化ゆえの危惧や人間が起こしうる過ちの危惧も集中で多く語られる。全体に主知的でありながら理に傾かないのは、松村のバランス感覚ゆえである。このバランス感覚とは、題材の選び方や短歌への取り込み方、表現における題材と具体の釣り合い、客観と主観の均衡、自身の思考や感情が歌に入るときに問題点を変に普遍化しないことなどが挙げられる。そのバランスが、平易な文体で沈潜した内容を語るという、出来そうでなかなか出来ないことを成し遂げているのだ。