東直子/毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡

東直子第一歌集『春原さんのリコーダー』(1996年・本阿弥書店)


 

今日の一首では、起きているときには「毒舌のおとろえ知らぬ妹」が、寝ているときには「すっとんきょうな寝姿」であることのギャップが可笑しみとして描き出されていて、それは、「楡」をのぞけば、

 

毒舌のおとろえ知らぬ 妹の すっとんきょうな寝姿よ

 

とちょうど「妹」を真ん中に据えるかたちで、歌の前後(ここでは左右)に、「毒舌のおとろえ知らぬ」「すっとんきょうな寝姿よ」という修飾が置かれる。ここでは妹のギャップをまるで視覚化するようにして、

 

5・7・5・7・5

 

といういわば新しい定型が出現しているのだ。
そしてそこから飛び出すようにして「楡」の2音が置かれる。
詩的な観点からいうとただぶん、「毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ」「楡」は釣り合うことになる。たった2音の「楡」ではあるが、ここでは「妹」のイメージに対して「楡」の持つイメージが釣り合っているのだ。

 

あるいは、「毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ」「楡」の修飾である可能性もあるけれど、そのような構図として考えるときには「毒舌のおとろえ知らぬ」はどこかはみ出てしまう。逆に、妹の「すっとんきょうな寝姿」が扇形に枝を広げる「楡」の樹形のイメージを連れてきたという感じもするけれど、一方で、この「楡」はもっと口から出まかせというか根拠のないところで置かれたことのイメージの鮮烈さがあるようにも思う。そしてそんなふうに見るときに「5・7・5・7・5」+「2」という新しい詩の形式としての魅力が増すように思うのだ。

 

それともう一つ、歌の中身をよくよく見れば、「おとろえ知らぬ」「寝姿よ」など文語的なんだけども、それが全体を統一するような文語脈としての重石にはならなくてなお軽やかな印象がある。そのためにどちらかといえばこの歌は「口語脈」寄りの歌、あるいは「口語の歌」として享受されてきたのではないだろうか。

 

つまりここでは「共有手形」としての「文語」が使用されてるんじゃなくて、バザーに並べられた帽子やスカーフを手に取るようにして「妹」のための言葉が選ばれてきている。そういう言葉の斡旋の仕方があり、定型もまた、モチーフのために手にとったワンピースみたいに着こなされているという感じがするのである。

 

だから、大胆な文体であり、大胆な言葉遣いの歌でありながら、それが「定型」や「文体」としての「強度」として見えてくるというよりも、ここではより自由に軽やかにイメージそのものが伝達されているように思うのだ。