捨てられた都ばかりが大きくて今は胎児に帰るうみへび

田辺広大『早稲田短歌』38号

 都は海の底に捨てられてしまったのだろうか。釣り逃した魚はいつだって大きいが、捨てられた都もいつだって現存する都より大きいのだろう。ポンペイのように灰に埋もれてしまった都もあることだろうが、そこに「うみへび」はいない気がする。火山を背にして、海蛇がたよりなくふらふらと浮かんでいてもよいとは思うのだが。

 記憶が正しければ、海蛇は確か卵生のはずである。ほとんど陸上にあがることのない海蛇が砂浜に上がってくるのが産卵のときだ、と聞いたことがある。しかし海蛇は大人になっても胎児に似たところがある。羊水のような海にふよふよと漂い、潮にまかせてどこまでも流されて行ってしまう無力さ。しかし流れ着いた先でも生き残る生命力をもっているために、外洋性のセグロウミヘビなどは世界中の海に分布しているのだという。

 うみへびは廃市にただよいながら胎児にかえり、また新たな生命として生まれ直す。あるいはうみへびの生々流転とともに、死んでしまったはずの都市もまた海中で新たな生を行き直すことになるのかも知れない。輪廻、ということばを今さらのように想いながら、捨てられてしまったものの悔しさだけが、苦く心に残っている。