松村正直 「うた新聞」2月号 第95号 2020年
冬が深まらないまま2月の後半に入ってしまった。今夜は久しぶりに雪の予報が出ているので、雪が舞う朝になるだろか。厳しい寒さが好きとはいえないけど、気持ちを洗われるような冬の冷気はゆるんだ日々にきりっと折り目をつけるようで雪を心待ちにしてしまう。
この歌はそういう冬の朝の気分をくっきりと表していて思わず立ち止まった。「鉛筆のごとく心はとがりゆき」とするながれがとてもシンプルでさわやか、鉛筆という身近な文房具と心との類似性をさらりと見せることで、言葉が魔法をかけられたように美しくかがやき、無駄なく心理が描写されている。
歌はさらに展開して、立体的なひろがりを見せている。心になにか緊張をもたらすことがあるのだろうか、あるいは朝の冷気が心に張りつめたものをもたらしたのだろうか、屹立した心のありようが風景を異化してみせる。もともとまっすぐな道路が、さらにこの朝は際立って見えたのか、あるいは曲がった道路もまっすぐに見えるほど、心が清浄であるということなのだろうか。どちらしにても「朝の道路がまっすぐになる」という直叙の言い方には、どこかただごとではない意志的なものを感じてしまう。ここには現実からはみ出してゆく精神の遠心力が働いている。
ところで「道路がまっすぐになる」、というフレーズから連想してしまうのはやはり聖書に登場する洗礼者ヨハネの言葉だ。
「わたしは預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」(「ヨハネ伝」1・23)
と名乗るヨハネ。イエス・キリストに先駆けて登場し、その先導者としての役割を与えられているヨハネ。たったひとり荒野からあらわれ、荒野にさってゆくその姿はあまりにも孤独であり、その運命は酷い。しかし、人格の清らかさはまさしく光のあかしそのもの。
この歌の芯にある精神にはどこかヨハネのような孤独な決意が秘められているように感じるが思い違いだろうか。