紅い薔薇が一本風に飛ばされて陽のなかのフイッツジェラルドの墓

中津昌子 「短歌研究」第76巻第2号 ・2019年

一読したときから、鮮やかな景と世界のひろがりが印象にのこって思わず引き込まれたまま忘れ難い歌になった。風に舞い上がる赤い薔薇、あかるい陽光に洗われて永遠に休息しているかのような作家とその墓。ひとつひとつの言葉がよく選ばれており、景からさわやかな香りがたつようだ。フイッツジェラルドという固有名詞の響きも軽やかで歌を明るいものにしている気がする。

フイッツジェラルドは20世紀アメリカ文学を代表する作家。華やかな名声とはうらはらにその作家としての生涯は苦難の連続であったようだ。晩年はアルコール依存症になり1940年に亡くなっている。その墓はメリーランド州にある。作者はメリーランド州に滞在したと連作の詞書にあるから、実際にその墓を訪れたのだろう。

仏教では供花として薔薇は棘があるのでよくないそうだが、キリスト教ではむしろ薔薇は望まれる花。たしかヘッセは詩の中で〈一本の薔薇も私の棺を飾らないだろう〉と嘆いていた。ここでは、赤い薔薇の花束が墓に供えられていたのだろうか。あるいは作者自身が供えたのかも知れない。その一本が強い風にさらわれて空に舞い上がる。この景はおそらくは幻想。でもその一瞬の演出がなんとも鮮烈だ。一本の薔薇が風に運ばれてゆくことで、時空に眩いようなひろがりが生まれている。現在の時間から解き放たれて、ひといきに作家の生きていた20世紀のアメリカがひらけてくる。あるいは風に消えてゆく薔薇はひとときの栄華のなかを散っていった作家の魂のようでもあり、一首のなかに古き良き時代への憧憬がながれる。そして作者自身の時間とひとりの作家の生涯の時間、さらに文学をとおして共有されてゆく文化的な厚みのある時間という位相の異なる時間が重なり響き合い、かろやかな言葉に奥行きをもたらしている。

何よりもこの歌を魅力的にしているのは、あかるく知的な表現にあるのだろう。死者を詠みながら湿っぽくなく、陽光にあふれる透明感が作家の死にきよらかな救済をあたえている。死によって生まれる静かな言葉もある。そんなことも思う時間がこの歌からはじまる。