いはれなく街の向うまで見えて来る さよならといふ語をいふときに

齋藤史 『秋天瑠璃』不識書院・1993年

 

たとえば駅でだれかを見送って別れる時、残される方がなんとなく寂しい気持ちがする。発ってゆく人には行くべき場所があるけど、残されるものは、なんだか拠り所を失ったようで心細い。そうしたときに、今いる街の向こうへ、憧れのようにあてどない思いが流れてゆく。今いるところは仮の場所であり、ほんとうはもっと遠いところに自分の居場所があるのではないか、と漂泊する思いがしみ出してくる。

歌を読み返すと、ここでの街は実在する空間としての街というより、時間の流れのなかに浮かび上がる街のような気がする。自分が生きてきた歳月によって築かれた街。その向こうが見えて来るとは、自分にとっていちばん華やぎ、幸福だった時代を懐かしく回想しているのではなかろうか。
そう思うと、さよならという時、とは誰かとの今生の別れのとき。別れる相手は、自分をおいて先に逝ってしまった青春をともにした仲間たちだろう。なにかが心に触れて、失ってしまったひとりひとりの追憶が、そしてともに生きた時代が〈街の向こう〉のように身に迫って見えて来る。いつまでも蘇りくる青春の余光。

何度も読んでいると、〈さよならといふ語をいふとき〉というきっぱりとした物言いがあとまで心に残る。これはもしかして、自分自身がいつかはこの世と別れを告げる時のさよならではないだろうか。街の向こうとは、生まれて長く歩んできた愛おしいこの世のすべて、それを生きながらにして既に懐かしく抱きしめているのかもしれない。

第一歌集の『漁歌』を思わせる透明感のあるあかるい口調に思わず立ち止まった。しかし口語風の口調はかろやかだけど、そこには遙かな歳月をあゆんできたものの深い愛惜と、豊かさが簡明な言葉のなかに美しく響いている。