岩尾 淳子


ふくろとじのような記憶のなかほどに坂道ありて君がふりむく

永田紅 『春の顕微鏡』 青磁社 2018年

 

ふくろとじは何枚かの紙を二つに折りたたみ、重ね合わせて綴じたもの。古い和本などに見かける。形状が袋のようにみえるところから名付けられたらしい。ここでは、ふくろという言葉がやわらかなふくらみを歌に添えている。

記憶がふくろとじのようだと比喩されることで、書物のイメージが喚起され、こころに降り積もってゆく長い時間や、そのゆたかな蓄積に手触りが与えられてたのしい。しかも記憶は、その本人にしか覗き見ることはできないのだから、ふくろとじ、という比喩はよくかなっている。記憶はすでに失われてしまった非在の時間の痕跡でもあるのだけれど。この作者にとっては現在につながる豊かであたたかな心の腐葉土のようだ。そんな過去へのいつくしみがこの比喩を呼び込んだのだろう。

また、その記憶のなかほどに坂道があるという。坂道は下から上に、また上から下へと下る空間の境界にあたる場所。そこは平坦な道より心象が深い気がする。記憶のなかのどちらかというと濃い印象をもった時期。その部分が坂道であるのだろう。そこにかつて君はいて、一瞬ふりむくけど、すでに遠い人のようだ。

一首のなかに、人との出会いや別れをともなった人生の時間が実にこまやかに詠み込まれている。ふくろとじも坂道も、無理のない平明で身近な言葉。それをこれ以上ない取り合わせで繊細な心情にフイットさせている。

ことさらに喪失感をうちだして嘆いてはいない。過ぎ去った日々をしずかに懐かしむこころのありようにある種の余裕や明るさがある。それはこの作者が生まれながらに培ってきた聡明な知性のひかりをとおして眺められているからだろう。この透明感のあるかろやかな表現で、深く時間の厚みを詠み込むことはそうたやすくはない。哲学者のような静かな思惟の世界を感じる。

 

考えるために歩いてきたはずの秋の川原に犬を見ている