永井 祐


脚硬き椅子にしましの過ぎてゐぬ何も見ぬまま歩みたるごと

森岡貞香『少時』

『森岡貞香全歌集』がこんど、砂子屋書房から刊行されます。
このページは砂子屋書房のサイトのものなので宣伝のようになりますが、
わたしも気分が盛り上がってきたのでまた森岡さんの歌をやろうと思います。

今日の歌の収録は『少時 (しまし) 』、最後から二番目の歌集です。00年代前半ぐらいの歌。
最後の三冊の歌集は基本的にノー編集になっていることは前にも言いました。でもだからこそ面白いということがあって、音楽などで「~セッション・コンプリート・レコーディングス」みたいな名前で出ているCDのような感じです。たとえばアンソロジーとかベストアルバムのようなものの対極にある。読んでいくとおお・・というのがすぐ見つかります。

今日の歌とかどうでしょう。
これ解せます?
すごい面白いですよね。上句は「椅子にしばらくの時間が過ぎていた」もしくは「(わたしは)その椅子に座っていて気がついたらしばらくの時間が経っていた」というところでしょう。わたしははじめ前者でしたが、後者ととるのが普通なのかも。そして下句がすごい。おおまかに、「何も見ないままで歩いたみたいに」。どういう意味なのか。立ち止まらざるをえない下句です。

しばらくの時間が過ぎていた、というのは、椅子や自分に明確な変化があったわけではないのだと思います。おそらく位置も変わっていない。ただ、何かある時間を過ぎたような雰囲気とか感覚がある。
で、その時間の過ぎ方っていうのが、「何も見ないままで歩いたとき」と同じようだと言ってるんだと思います。

「何か見て歩く」のと「何も見ないで歩く」のでは、時間の過ぎ方が違うということ。「何も見ないで歩く」と、無心で歩いていて、何かこう、意識が歩いた後にワープしたみたいな感じになる。何が過ぎたのか、その経過がないみたいになっている。
椅子とわたしに、そういう時間の過ぎ方が今あった。
わたしなりの解し方ですが、こんな感じかと思います。「何か見て歩く・見ないで歩く」ということに時間感覚でつながっていくのがすごい。

 

きのふにて走りつづけて止まりたるわが車 城址の石垣の端 (はじ)

 

 これは、シチュエーションが実はちょっとわかりきらないのですが、やはり時間の感覚が面白い。「城址」は「じょうし」とも「しろあと」とも読んで「城跡」と同じ意味。
前後の歌から、福島県の二本松城跡に観光にきているところのようです。
「城址の石垣の端」は、おそらく「わが車」が停めてあるところ。グーグル画像検索をしましたが、石垣のすぐ下が駐車場になっているようです。
要するに昨日それに乗ってきた車が駐車場にいるということなんだと思うんですけど、それの言い方一発でなんか面白いんですよね。「きのふにて走りつづけて止まりたる」。
「きのふにて」が不思議。昨日というところで走り続け、止まった車が今いる。
森岡さん的にはそれがウケる、みたいなところがあるような気がします。
またちょっと入り込んだ解釈ですが、こんな歌ができる背景として。