新品を入れても光らない玩具に光ってた頃の電池を戻す

中森さおり「髪を切る」(『ねむらない樹 vol.6』)

 

前回引用している歌は、本当は五〇首連作のうちの一首になります。
連作は、前回プリンの歌をやりましたけど、料理とか買い物とか洗濯とか子どもの世話とか、家庭っぽいモチーフがよく出てきます。
そうなんだけど、そこで活躍する想像力がけっこう冷たくて硬質なものが多いように思って、そのへんが面白かったです。

 

子供部屋覗けば隅で膝抱え五歳は褐色のステープル

 

ステープルとは金属製のU字形(もしくはコの字形)の留め具のこと。ホッチキスとかも一応ステープルのようですが、もうちょっと大きいものを指すほうが多いみたいです。
「褐色のステープル」とはだから、金属の黒い留め具。
「膝抱え」だから、日焼けした五歳ががっしりと自分の膝を抱えているのを留め具に比喩しているのでしょう。
こういう風に読み解けるんですけど、でも、「ステープル」は膝を抱えている五歳児をたとえるには、普通より(?)ワンポイント冷たくてワンポイント硬いっていう感じがします。そこにちょっとした違和感があって、歌としての光もそこにあるように思います。

今日の歌をやりましょう。

 

新品を入れても光らない玩具に光ってた頃の電池を戻す

 

これも気になる、好きな歌でした。
子供のおもちゃなんでしょうか、電池を入れて光るやつでそれが光らなくなってしまった。新品の電池を用意したけど「入れても光らない」。
そして「光ってた頃の電池を戻」した。
これ、なんとも言えない言い方をしてるのが好きなわけですが、もとのおそらくは切れている電池を戻したってことなんでしょうね。
違うのかな。
わざわざ新品を入れるからには、もとの電池では光らなくなったという想定のもとに読み進めてきましたがそうじゃないのか。
「光ってた頃」という言い方が面白いところで、過去に光ってたことがあれば現在は切れていたとしても「光ってた頃の電池」と言えますよね。でもそうなのかどうかははっきりわかるわけじゃない。そもそも切れているとしたら戻す積極的な理由はない。惰性みたいなことなのかと思ったけど・・・

省略の仕方も「光ってた頃」もきわめて日常的な言葉の流れ方でありながら、おそらくだからこそ謎がふわふわはみ出していて、何か不条理にふれるような感触があります。そのへんに惹かれる。

この歌は韻律がのっぺりしているところもポイントで、たぶん二句の9音が長すぎて短歌のリズムで乗れないので、上から下まで一息に読み下す感じかと思います。この棒状のリズムが歌に合っているというか、歌の感触を作っている。

 

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