思うひとなければ雪はこんなにも空のとおくを見せて降るんだ

小島なお 『展開図』 柊書房 2020年

 

恋は終わったようである。

雪空を見上げて、初めて気づいたかのような呟き。思う人がいたときには、その人のことばかり気になって、雪が降っても雪の降ってくる空を見上げることなんてなかったのだろう。

一首は、心の中に生じた思いをすうっと吐き出したようで、澄んだ寂しさが漂う。

思うひと/なければ雪は/こんなにも/空のとおくを/見せて降るんだ

5・7・5・7・7に区切って見たとき、2句目の「なければ雪は」の接続助詞から主語への繋がり、さらに3句目の「こんなにも」という深い吐息を思わせる言葉への続き具合が、なんとも絶妙である。そして、下の句の「空のとおくを見せて降るんだ」の、自身の内側で納得していく様子。「空の深く」でもなく、「空の奥」でもなく、「空のとおく」と表現したところ、思いがはるばると遥か彼方へと放たれてゆくのが感じられる。「とおく」というひらがな表記もいい。

あらためて、表記のうえから一首を眺めてみると、漢字とひらがなのバランスがよくて、ふっくらとできていることにも気づく。「澄んだ寂しさ」と感じたのには、この表記上のことも影響していそうだ。

 

仰向けで空想すればなかぞらの飛び込み台から落ちてくるきみ

 

これはまた爽快な!

和泉式部なら「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天くだり来むものならなくに」と詠んだところを、現代の作者はこのように詠む。空を仰ぎながら、「落ちてくるきみ」を受け止める感覚か。そこにスパークするものがある。

「飛び込み台」ということから、すぐさま古賀春江の絵(「海」)を連想したのだが、その絵を確認してみたら私が勝手にイメージしていたのとは違って、飛び込み台に立つ人は「なかぞら」にはいなかった。画面の右側にけっこう大きく描かれていて、あらまあ、そうだったか、という感じ。思い込みには気をつけねば。これは余談であるけれど、シュールな絵を見るような一首でもあった。

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