打ちつける雨のうらがわに<ぬ>のちから秘めて満ちて伸びて伸びてまいまい

上條素山「ぬのちから」

 

これも賞の選考の過程で出会った歌。
雑誌掲載にならなかったものなのですが、作者の了解があったので引用しました。
五〇首連作「ぬのちから」というものの、表題作になるものです。
連作は独自の世界を持ったもので、なかなか説明しがたいのですが、一首ずつやってみようと思います。

今日の歌、「独自の世界」という感じはぱっと見からするのではないかと思います。
「まいまい」はカタツムリのまいまい。
「打ちつける雨のうらがわ」は、葉っぱの裏側のカタツムリを想像して、さほど間違いではないと思う。
この歌は、カタツムリについて言っていて、
雨が打ち付ける葉のうらがわに生れた「<ぬ>のちから」が満ちて伸びてカタツムリになるのだと言っている。
<ぬ>のちからってなに。
わからないです。なんとなくしか。なにかそういう謎の力があって、この世に力を及ぼしているみたいです。連作「ぬのちから」を読むとそれがうっすらと見えてきます。
わからないのですが、でも謎の「<ぬ>のちから」を想定したり、「秘めて満ちて伸びて伸びて」というぐいぐいくる韻律などが発する奇妙な熱に圧倒されるような歌でした。自由さもすごく感じて、なかなかこんな風に作った歌を見ない。
カタツムリはたしかに謎の物質みたいではあるし、伸びたり縮んだりする<力>みたいでもある気がします。そして「ぬ」っぽい感じもする。「か」の力ではないような。
だから、「カタツムリのあの感じ」から熱を帯びた想像力を伸ばしていくっていう歌なのかなと思いました。

 

にんげんの憑くことのちから衰えてどこかかなしい憑依芸人

 

これもこの世ならぬ「ちから」に関する歌で、さっきの歌と並べてみると、これらの歌がフォーカスしたいものが少しわかると思います。
憑依芸人とは、霊が憑依するように、普段の人格とは違う主に架空のキャラクターになりきる芸人のこと。
でも、ここではその憑依芸人の憑依の力は衰えたものだと言っている。人格が切り替わったような憑依じゃなくて、かつて人間が持っていた「憑くことのちから」はもっと力強いものだったと言っている。「どこかかなしい」だから、はっきり指摘できるような差ではなくて、何かが違う、でも決定的に違うという感じですね。
「にんげん」の平仮名書きも印象的です。それは現在一般的な「人間」とは別文脈のものであると言っているように思います。

二首の「ちから」の歌をやってみましたが、連作「ぬのちから」では、こういう、この世ならぬ力みたいなものを、とても個性的な形でつかんでいる感じがします。

それは観念的なものかもしれないけど、熱を感じるので、わたしはとても面白かったです。次回ももう少し。

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