久我 田鶴子


能登に来て海の不思議を語りだす来春はわが妻になる君

藤島秀憲 『ミステリー』 短歌研究社 2019年

 

来春には結婚することが決まっている二人。一緒にやって来た能登の海を眺めながら、「わが妻になる君」は海の不思議を語りだした。

君の語る「海の不思議」とは、何だろう。そこから命が誕生したということ、母なるものの中にも海があるということ、たくさんの多様な生き物を養いつつ動き止まない、それ自体が生き物のようであること、……。君は海の不思議の何を語ってくれたのだろう。ここでは、「海の不思議」とだけあって、具体的でないことが読み手の想像力を刺激する。一首の世界に、読者も参加させてもらえる感じだ。

聞いている作者は、君の語る「海の不思議」ならどんな内容であっても、きっと楽しく耳を傾けていたことだろう。「来春はわが妻となる君」には、喜びが溢れている。

 

それぞれの五十五年を生きて来て今日おにぎりを半分こ・・・する

これからをともに生きんよこれからはこれまでよりも短けれども

 

こういう歌もある。

五十五歳にして手にした青春だ。それまで十九年間も両親の介護をしてきて、その間の職歴を「無職」と書くしかなかった人の、やっと手にした青春であることを知ると、いっそう「来春はわが妻となる君」という作者の思いが理解できるのではないだろうか。

手放しの喜びの表現も微笑ましい。

 

多摩川を越えて春蝶とべる日の戸籍係に列できている

 

二人が結婚して住むのは、世田谷区瀬田。多摩川に近い場所だ。

多摩川を越えて春の蝶が飛ぶ、そんな日に婚姻届を出しに行く。すると、戸籍係の前には列ができている。人の列に連なりながら、人の列に連なれることもまた喜びになる。

「多摩川を越えて春蝶とべる日の」に窺える心の弾み。それは、「木に花咲き君わが妻とならむ日の」という前田夕暮の歌をも連想させる。

 

木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな    前田夕暮

 

時代を超えて、結婚の喜びが男のこころを弾ませている。また、幾つになっても、青春のみずみずしさは人のこころを純情にするようである。