永井 祐


秋日さすまばら小松の丘越しに磯あらふ浪のひねもす聞ゆ

若山牧水『朝の歌』

若山牧水がわかりたい、
と数年前から思っていて、しかしなんとなく機会がなく、
いまだにつかめた感じはしないのですが、古本で全集を買ったので、そこから引いてみました。九冊目の歌集、『朝の歌』から。
九冊目といっても、彼はほぼ毎年歌集を出していたとのことで、30代に入ったくらいだと思います。

今日の歌は海のそばの歌。
海のそばに丘があって、小さい松がまばらに生えている。
その向こうから磯、つまり石や岩の多い海岸にずっと波が打ち寄せている。
「ひねもす」は「終日」と書いて一日中という意味。だから、一日中ずっとその音が聞こえているという歌です。
「丘越し」だから、海は見えていないということですかね。音だけが聞こえている。

松は塩害に強く、砂浜でも育つ稀な植物なので、海のそばに多い。でもその松も小さいのがまばらに生えている丘に秋日がさしている。「秋日さす」はその場の光景のようですが、それが「ひねもす」というずーっと続く時間に移行する。
見えない海からずっと波の音。歌の途中から永遠の世界に入っていくみたいで、世界観的にはけっこうやばい気がします。知らないうちに俗世を離れていく感じがする。
有名なところで、

 

春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村

 

を思い出しますが、こっちは旅行で来た春の海を見ている感じがします。
今日の歌はもっと日常っぽくて、もっとぐだっているというか、丘を越えて海や波を見に行くということをしない。少なくともこの歌の中では。ただ音が聞こえている。

 

来馴きなれつる礒岩の蔭にしみじみと今日し坐れば秋の香ぞする

 

この歌では礒の岩のところまで来ました。でもこの歌でも、「しみじみと今日」座ったけれどそれは「来馴れつる」場所であって、ずーっと持続しているものの中にある。そしてそれでも「今日」が特別になる場合だったら「秋の香ぞする」という結句にはならない。地味なものでもなにか「今日のそのとき」だけを刻印するようなものになるはず。

 

「今」が特権化されないような時間感覚と言うと言い過ぎかもしれませんが、ちょっとそのようなものを感じます。波の音はずっと聞こえていて、秋がくれば秋の香りがする時間。

実際、このころの牧水の歌には「発見」みたいなものもほとんどない。波のようにときどき高まったり落ちついたりするだけ。

おおらか過ぎてちょっとこわいようなフィーリングの歌が並んでいて、わたしはそれに興味を引かれます。

今日の歌は、書になったりしているみたいです。意外と有名な歌だったのか。

 

http://shobi.or.jp/sho200/info/196.html