永井 祐


嘴太のくろびかりせる一体が擬木ぎぼくの柵に降りてをるところ

小池光『静物』

 

鴉と言わない。
「嘴太のくろびかりせる」まで言うものの、最後まで鴉と言わない。
言わないことで逆に存在が立つということなのか、気になって最後まで引っ張られるということなのか。
そして、「一体」とくる。
鴉だと普通は「一羽」のところ、ここでは「一体」としている。
検索してみると、「一体、二体」という数え方は、通常、生きていないものに使うらしいです。たとえば「亡骸」を一体と数える。またロボットなども一体二体と数える。ここではイレギュラーに、生きているらしい鴉に使っている。
ここはとても面白いところだと思います。
「一体」とすることで、なにか鴉の軽い重みみたいなものがつかめる気がします。
それで、原義的には「体あるもの」という感じだそうなので、いわばここで鴉の「生」をはずして「体」をつかんでいると言えるかもしれない。あるいは「羽あるもの」ではなく「体あるもの」としてつかんでいる。
上句をかみくだくと、「くちばしの太い黒光りした一つの体あるもの」という感じになるでしょうか。
「嘴太」だけでそもそも鴉と当たりがつくけれど、それは言わないで、そのありようだけを描いていて、そこに何か面白さがある。

「擬木の柵」はコンクリートやプラスチックでできた木を模した柵で、公園とかいろんなところにありますね。あれに鴉が降りている。
この「擬木の柵」の趣というのもあって、鴉のいるのは本物の樹木や路上ではなく、偽物の木の柵にとまっている。この歌のほかに鴉が擬木にとまっている歌を見たことないです。陳腐な場所ではないというか、「擬木の柵」が持っている陳腐さが逆に面白くしているという感じでしょうか。

最後の「をるところ」はたぶん、正岡子規-斎藤茂吉「地獄極楽図」の歌が下敷きになっているのかと思います。この話はくわしくしませんが、近代の短歌のパロディとまでは言えないかもしれないけれど、意識した締め方になっていると思います。

「鴉」という言葉は出て来ず、「一体」としながら、「擬木」にとまっている、というように、真実感よりは虚の感覚を強く受ける歌でした。
むしろその虚の感覚が真実という歌なのでしょう。
二回前にやった自動改札の歌もそういう感じだし、小池さんの歌によくあらわれる感覚だと思います。