笹川 諒 『水の聖歌隊』 書肆侃侃房 2021年
「水槽の中を歩いているような日」とは、どういう感じだろう。浮遊感があって、現実から隔たっているという感じだろうか。
水の中では、他者とコミュニケーションを取ろうとしてもできない。水の膜に包まれた「わたし」は、他者と切り離されて、「わたし」だけになる。他者がいないところでは、「わたし」を特定するための名前は要らない。「わたし」は「わたし」、ただそれだけだ。「匿名になり」というのは、そういうことを言っているのだろうか。
では、「月になる」とは?
太陽は自ら光や熱を発する主体的存在だが、月は他から届く光を反射させるのみ。そして、地球の周りを回る。ならば、「月になる」とは、何かの周りをぐるぐる回ることか。なにか(誰か?)の衛星のようになって、それについてずっと思いをめぐらせる。それは、外からは見えない。自己の内面との対話。
一人になって、ものを思っているときは、たぶんそんな感じになっているのではないだろうか。
実名など何の要もなさないところで、ただ「わたし」がいて、何かについて思いをめぐらせている。「匿名になり月になる」とは、そういうことなのかもしれない。
この一首を5・7・5・7・7で区切ってみると、下の句は「日は匿名に/なり月になる」となる。このイレギュラーなリズムも不思議な感覚にいざなう。無理に区切って読まなくてもいいのだけれど。
優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊
この歌の下の句も、「気付いて、ずっと/水の聖歌隊」とイレギュラーな弾みを見せている。そして、「気付いて、」までは割とすんなり分かったような気にさせられながら、終わりに来て、「ずっと水の聖歌隊」の唐突さにちょっと迷子になる。
優しさは傷つきやすさでもあるということ。そのことに気づいてから「ずっと水の聖歌隊」。つまり、人に接近しすぎず、少し離れたところから優しさを籠めて祈りの歌をうたいつづけているというのだろうか。
「優しさ」についての考察と、それに対する自らの態度と。作者の繊細さが言葉を探している。
歌集のあとがきには、「言葉とこころ、自己と他者、現実と夢……、(中略)今日はここまで考えた、こういう感覚があった、ということを短歌という詩の形で記すようになり、(以下略)」とある。言葉にとどめにくいものを、なんとか短歌のかたちにしようという試みが続いている。