ここに居ることの薄さのガラス戸に秋の冷たい指紋をのこす

林 和清 『朱雀の聲』 砂子屋書房 2021年

 

「ここに居ることの薄さの」までが「ガラス戸に」の序詞になっている。自らの存在感の薄さを思わせる薄さでガラス戸がある。

そこに指紋をのこすのは、ささやかな存在証明だったか。秋の冷えた空気の中で、触れたガラスの感触も冷たかったことだろう。

「ここに」は、「この世に」というような大きな括りと思ったが、あるいはもっと限られた「ここに」なのかもしれない。今現在、直面している問題の前に、あまりに無力な自らの存在の自覚。だとするならば、「指紋をのこす」行為がいっそう切実なこととして見えてくる。

調べは、あくまでも静かに穏やかに、冷たく張り詰めた秋の空気を揺らす。

 

うつかり歳を取つてしまつて萩の散る朝の路面に佇つこともある

 

この歌では「うつかり」「取つてしまつて」と、現代仮名遣いでは小さな「つ」で表される促音がつづく。つまる音の連続がおどけたような弾みをもって、「萩の散る朝の路面に佇つこともある」という他人事のような結末へ。

だが、これは他人事ではない。いつまでも若いつもりでいたけれど、いつの間にか自分もすっかり歳をとってしまっていたことに気づかされ愕然としたと言うのだろう。

「萩」の花からは人生の秋を、それが「散る」ことからは盛りを終えることを、「朝の路面」からは未だ人生の途上にあって初めて気づいたことを、「佇つ」からは呆然とたたずむことを思わされる。そして、最後は「こともある」に回収されていくのだが、他人事のように見えたのは自己を戯画化して笑っているのであった。

 

林住期なんておほげさ北見れば北山に虹たたせる時雨

 

この歌にも作者の年齢意識が窺える。

近頃よく目にする「林住期」という言葉は、五木寛之が『林住期』という本を出版したことから広く知れ渡ったようだが、ヒンドゥー教における人生区分の一つ。人生を百年として、学生期・家住期・林住期・遊行期と四つに区切り、林住期は50歳から75歳を言う。森林に隠棲して修行する時期だそうだ。

50歳からの残りの人生をいかに生きるか。そのことを自分の事として考える年代層が今の日本社会のかなりを占め、作者自身もまたその中に入ってきたのだろう。

けれど、「林住期なんておほげさ」とあっさり斬る。北を見れば北山に虹を立たせる時雨が降っている。そんなに身構えることでもないよ、とでも言うかのごとく。

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