赤光のなかに浮かびて棺ひとつ行き遙けかり野は涯ならん

斎藤茂吉『赤光』

棺はおそらく、「運ばれる」もの。ひとの手であれ、車に乗せられるものであれ、自ずから浮かんだり、ましてやどこかへ行ってしまうことはない。
でも、このうたの語り手には棺が「浮かび」、涯へと「行」ってしまうように視えている。
さらにテキストの通りに読んでみると、「赤光のなかに浮かびて」、つまり赤い光のなかにぽっかりと、棺が浮かんでいる、という様子を〈私〉は視ている。

鶴岡善久氏はこの情景について、「黙々たる人達にかつがれたひとつの棺が赤い光を受けながら野の涯へ遠ざかって行くのである」(『シュルレアリスム、その外へ』沖積舎,2015)と書いています。
たしかに、現実の世界では、鶴岡氏の言うように「黙々たる人達にかつがれたひとつの棺」の描写なのですが、語り手はそれを素直に写生せず、敢えてそのように視えるほうを語りかけています。

実際に作中の主体が目にしているであろう、棺をかつぐひとたちの手、を、うたの中から完全に排しているのです。

 

かれらの手が、ことばとイメージのなかから消え去ることで、自分の、あるいは自分たちの「手ではどうすることもできない」、「手には負えない」ような無力感を、あるいは「手出しのできない」というような尊さに似た感情があぶり出されるようです。
死に至り、棺におさめられている、運ばれている当人やそのたましいに対してではなく、「棺」そのものが、にんげんのなまなましい気配を奪い去って、遥か遠くへ浮かんで行ってしまうようにも感じられます。

 

極端に言ってしまえば、このうたのなかでありのままに写生されているのは「棺ひとつ」と「野」と「遙けかり」という感情だけ。「涯」だってあやしいのです。そして「赤光」も、「浮かびて」も、「行き」も、すべてがそのように視える世界のもの。

 

赤い光。夕焼けや朝焼けをこのように表現することは珍しいことではありません。
ただ、この異様な視野をもつ語り手は、本来の「黙々たる人達にかつがれたひとつの棺が赤い光を受けながら野の涯へ遠ざかって行く」という光景から、「棺」がその後に行き着く火葬の、その炎の様子までも、視えてしまっているようでもあります。

 

この無自覚な異様さ、そうして読み手を「ぞっとさせるもの」は、茂吉の初期の作品において、とりわけ輝いている点であるということは、すでにたくさんの歌人や研究者によって論じられているとおりです。わたしは、敢えてそこにもっとずっと踏み込んでみたい、と考えているところです。

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