これがハイスピードカメラで記録した好きだと思い込む瞬間です

鯨井可菜子『タンジブル』(書肆侃侃房、2013年)

 

たとえば

「これがハイスピードカメラで捉えた、水滴が水面にあたる瞬間です」

というような口上をおもいだしてみる。ふつうのスピードでは認識できないような〈瞬間〉を、スローモーションで展開して見ることができる、というものだ。理科の教科書やテレビの映像で見たことがあるかもしれない。水滴が落下して水面にあたり、そのときどんな力がどこへ及んでいかに波紋をひろげていくか、という一連の動きが仔細に映し出される。

 

このうたで捉えられている〈瞬間〉、展開してまで見ようとしているのは「好きだと思い込む」わたしの姿である。そんなものがあるのか、ないに決まっているのをわかりながら、定型文にのせることによって想像してみる。あのとき、あの場面の、あの瞬間に、決定的になにかが動き出してしまった、そのことを反芻するのだ。もう戻れないあの地点を。

 

好きになる、ではなく好きだと思い込む・・・・というところに、心情の襞がある。解説者のようにあくまでも外からわたしを眺めつつ、ひるがえって、「思い込む」と思い込みたいわたし、というつよい主観がおもわれてくる。あるいは「思い込」みだったのだとわかってしまった今の、わたしの姿が。好きになる、好きだと思い込むそのときに、「記録」の用意はまだなかったんじゃないか。

 

でも案外、ハイスピードカメラを使ってみると、その「好きだと思い込む」瞬間というのは見ることができるのかもしれない。どこまでスローモーションにしても、「好き」と「好きまではいっていない」との追いかけっこが映るだけかもしれないが。「アキレスと亀」のようだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です