父を殺し声を殺してわたくしは一生(ひとよ)言葉の穂として戦ぐ

服部真里子『遠くの敵や硝子を』書肆侃侃房,2018

 

「声を殺して」は「泣く」等の動詞にかかることの多い慣用句ですが、「父を殺」す次元と「声を殺」す次元が、このうたでは交差しています。

このうたの語り手は、うたの真ん中で何らかの言葉を飲み込み、「わたくしは」とわざわざ主語を付け足しながら、抑えた声で宣誓するのです。「一生言葉の穂として戦ぐ」と。
ここでいっそう際立つのは、飲み込まれた言葉のほうではなく、その「一生」を享けとめる、という意志の強さのほうではないでしょうか。

 

殺された「父」は、語り手と「言葉」とをとりなすひとつの要素として作り変えられており、「声」は殺されることによっていっそう強く、われわれに語りかけてくる。
『行け広野へと』(本阿弥書店,2014)におさめられている、

 

 野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた

 

では、野晒しにされた「肺」の烈しい動きと、その熱い呼気とが響き合いながら、熱気・熱情といったものが、こちらまで伝播してくるようでした。

 

剥き出しの、内臓の露わにされた肉体をもって「戦って勝つために生まれた」わたくしは、今回のこのうたで「父」と「声」とを殺すことによって、「言葉」と一体となって「戦ぐ」生を引き受ける。
それは確かに、一義的な意味では「父」や言葉に対する〈暴力〉であり、そしてまた「解読」という〈暴力〉に対抗する意志の表われのようでもあります。

 

「戦ぐ」というのは、「いくさ」の字があてられていたのだということに、今更ながらにはっとさせられます。

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