島田修三『秋隣小曲集』(砂子屋書房、2020年)
ひとりの食事である。なにか凝ったものをつくる、というふうではなく、ここでは空芯菜を「ざざざ」っと炒めた簡単なもの。島田修三の食べもののうたは、家でつくっても、外で食べても、いかにもうまそうで、ことにこういう炒めものにおいては、油の照り輝き、つやまでもが見えてくるのである。
「鉄鍋」「空芯菜」であるから中華料理の雰囲気である。「みづみづし」いのを強い火でひといきにがっ、とやる。その迫力もここにはくわわる。歌集には「喰」の字もあるが、おなじくらい「啖」の字もある。健啖の啖で「啖らふ」。喰らふ、啖らふ、いずれにしても場面にいきおいがくわわる。むさぼり食う。
結句「哀しく啖らふも」の四・四の八音も、作者のうたの一面をよくあらわす。「桜咲くころ」一連の冒頭、「仮廬しおもほゆ」の一首にそのこころが垣間見えるが、詠嘆の「も」を添えるというよりもたぐりよせるような字余りに、こもるものがある。
ひとり食う生活を、あるところではじゅうぶんにたのしみながら、同時に、ひとりであることの、そこにいるべきひとのいないことの悲哀が、どうしても貼り付いて離れない。逃れがたくある。食うことそのものの哀しみさえ、そこには映るようだ。