堂園昌彦「語り」『短歌研究』,2022.05
二通りの読み上げ方があると思う。
読み(1)は、「海に身体を預けるような冗長な語りをありがとう」で切れて、その感謝の言葉を「初鰹」に述べている、という読み方。
初句から四句目までがひとつなぎに「ありがとう」へとかかる修辞であって、「冗長な語り」をしているのが「初鰹」の風味そのものである、という読解です。
読み(2)は、「海に身体を預けるような冗長な語りを」で切れて、韻律にとらわれない、語り手による独特の語りそのものが「冗長」であるとやや自虐的に述べている、という読解。
これだと「ありがとう 初鰹」が、一字分の余韻をもった、一個のセリフとして際立つような読み上げ方になります。
どちらも、捕食の対象である魚に「ありがとう」と語りかける箇所は一緒です。つまり最後にはつじつまが合うように仕立てられている。
何気なく受け容れてしまったけれど、「海に身体を預けるような」というのは、じつは「初鰹」の風味を直接的に表現しているわけではありません。
このシミリは、荒波に揉まれて、鍛え上げられた肉質、その過程でたっぷりとのった脂と潮の香り…というように、わたしたちに色々な想像を喚起させることで、その「鰹」に風味付けをしている。まるで料理のような比喩なのです。
ただしそこで、「冗長な」がちょっと難しい。
「初鰹」のおいしさに対して素直に感謝している舌と、「冗長な」とかたる舌との間になんとなく些細な違いを感じて、それが冒頭の読み(2)の、「冗長な」を自分の語りにかかるものとして捉える、という読み方を生み出させる。
名の知らぬスパイスのような役割を果たしています。連作のタイトルが「語り」であることも、やはり何かの示唆のよう。
そして何よりも、この「初鰹」の歌は文体に風味が存在していることが面白いのだ、ということに気がつくでしょう。