奥村鼓太郎「YOLO」『越冬隊』Vol.4 2022/5/29
これはにんげんのなずきのバグの歌だと思いました。
歌の始まりから、視覚で捉えられる距離感がちょっとおかしい。
唐突に「近い」とかたりだす語り手はさらに「左手」をのほうを差して、そこに「海」の「ひろがる景」を持ち出します。
わたしたちの視界も近く遠くへ行ったり来たりする。
そもそもの「近い海が」の「近い」は何を基軸としたものなのか、素直に読み取ろうとすると、実際に作中の主体は「海」のすぐそばに居る、ということになりそうですが、その読みは句跨りからの三句目「景は」で揺らぎ始めます。
上の句で、語り手は作中の主体が置かれていた過去の一点である「景」、とあるワンシーンを思い出していて、今、かれらがどの場所にいるのかはわからない。
「近い」が「いつの思い出」ともっとずっと密接に関わっていて、時間の隔たりが少ない、新鮮な記憶である、というニュアンスも含んでいるかもしれない。
そして「近い海が左手にひろがる景は いつの思い出だろう」と、歌の内容としてはまったく関わりのない、と言ってもよいであろう「百日紅」が、歌の中央で堂々と咲き誇っています。
ノイズのように、もしくはサブリミナル効果のように差し込まれるこの花は、初句で展げられた青い「海」の「景」に、パッと鮮やかな紅色を与えて、わたしたちの脳裏に焼き付く。それ以上のことは何も示さない。
連作タイトルの「YOLO」は「人生は一度きり(You Only Live Once」という意味のスラングで、その省略に宿る音韻や本来の意味からの凝縮は、どことなく世界を歌にするときの仕草のようだ、とも感じます。連作中には次のような一首も。
YOLOというスラングを覚えてから何回か使った
『何を見ても何かを…』ともあるように、わたしたちはこの世界に散らばるさまざまなものに「思い出」を与えられている。
それを、生の辻褄のあうような、時系列に沿った正しい状態で思い起こすことはほとんど不可能だと思う、けれど、歌をつくる際には整えられて、それも、ものすごく整えられて、三十一文字の型に当て嵌める。
今日とりあげたこの歌は、短詩としてのうつくしさを保ちながらも、かけがえのない一瞬の記憶を、生のままに、ありのままに差し出すような一首だと思いました。だからこれも、きっと一種のリアリズム。