谷岡亜紀『風のファド』短歌研究社,2014.11
引用は『続谷岡亜紀歌集』(現代短歌文庫,砂子屋書房)から
とりどりの時空が入り乱れている一首。
まるで朗読を聞いているかのような感覚に陥るのは、この歌は区切りごとに語り手の声色が変化するからでしょう。
わたしの「クオリア」ではすでに、語り手の「声色」の変化の話については幾たびか取り上げているので、今日は別の見方をとりましょう。
「SOMETIME AGO …」、アルファベットがすべて大文字・縦書き(・本文では縦書きとなっており、全角?と判断しました)という、不思議できざな始まり。
この表記を目にして思い出したのは、
5000円あっという間に交通費でなくなってPASMOが光ってる
『鶴の恩返し』で鶴に共感するぼくは身体にいいやつTSUTAYAで探す/永井祐『広い世界と2や8や7』
北山様、北山様と呼ぶ声に痴れてゆくなり CHINZANSO TOKYO
TSUTAYAへ行きそのあと鳩を追いかけた私から出ていくなよあたし/北山あさひ『崖にて』
といった現代短歌の秀歌たち。「PASMO」、「TSUTAYA」は字面も大きくてゆっくりとした発話、どこかかたことの感じのする。それに対して半角横書きの「CHINZANSO TOKYO」は、急に流暢な発音で耳に流れて来るような印象を受けます。
しかしながらこの「SOMETIME AGO …」は、元となる言語の違い、というだけにはとどまらず、これらとはまた別の種類の個性を受け取ります。
つづく三句目以降で吐露されているのは、自己の願望と絶望。
そこでわたしたち読み手に強烈な印象を与えるのは、「海辺」、そして突如あらわれる「菫色の日傘」の景。
ただし、それぞれに奇妙な〈間〉を与えながら。
この歌は「SOMETIME AGO」、「(一字空けののちの) 海辺」、「(一字空けののちの) あなたの菫色の日傘が揺れていしが」、「(一字空けののちの) 戻らず」、そのどの時空も一直線では繋がらず、それぞれが全く異なる世界線に身を置いているようでもあります。
わざわざ(一字空けののちの) と明記しましたが、この見た目にも明らかな〈間〉が延びることによって寧ろ、それぞれの世界を繋ぎとめようとしている、ともうつります。
語り手にとっての一瞬の今、たった一言、結句の「戻らず」を言うために、言葉を以てしてさまざま方法で「戻る」を試みようとしている。
巧みで痛ましくて、そしてその努力の煌めくうつくしい一首です。