池の面へながくかかりて傾きてことしの花の影を映せる

横山未来子『午後の蝶』(ふらんす堂、2015年)

 

「短歌日記2014」ということで、このうたには3/30の日付が添う。ひとつまえのうたに「桜の季節になった」と詞書がつくから、この「花」もまた、桜であろう。池のの桜の木が、ながいながい時間をかけて、そのに枝触れんとするまで傾いた。

 

「竹山広先生が天に召されてから四年になる。/四年前の今日は、花冷えの寒い日だったことを覚えている。」

 

今日のこのうたには、こう詞書がつく。故人を偲びつつ、また共にあった歳月を振り返りつつみる桜である。「ながくかかりて」にたとえば、竹山広が『とこしへの川』を書くまでの月日、その重たさをかさねて読むこともできよう。

 

むろん眼前にあるのは「ことしの花」その影である。しかしこの花の影へいたるまでには、ながいながい時間があった。うたも、ことばも、この「花の影」のようなものではないか、とおもう。

 

今をうたいながら、今にとどまらない。あるいは今をうたうことが、おのずから過去をうたうことになる。

 

池のにかぶさるように桜が枝をのばしている。花のころである。そのおもてに花の影が映っている。淡い影であろう。むかしまだ、こんなには傾いていなかったころには、しかし映らなかった影かもしれない。うっすらとしてみなもに揺れるその影に、時間の厚みがたしかにはりついている。

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