王国の猫が抜け出すたそがれや書かざれしかば生まれざるもの

寺山修司『月蝕書簡』岩波書店,2008.02

 

昨晩は月食。仕事からの帰宅時にちょうどよい頃合いに当たったようで、

街の少なくないひとたちが空を見上げていたり、写真におさめようとしていたり、

それぞれの心をゆるすひとたちと月を眺めたりしているのは、どこか別の世界線に迷い込んでしまったかのような、

空の上でも地上でも、なんとも不思議な光景を眺めることができました。

さて、今日は「月食」と耳にして、真っ先に思い浮かんだ歌集から。

 

唐突に登場する、「王国」と「猫」。

いったいどの「王国」だろう。どんな「猫」なのだろう。

ここで詠われているのは、「王国の猫」が「抜け出す」ものとしての「たそがれ」なのか、「猫」が「抜け出す」ものとして「王国の…たそがれ」を指しているのか。

「猫」ののち、おそらくはわざわざ調べに引っかかるようあしらわれた「が」が、わたしたちの解釈を多彩なものへと誘います。

 

この歌のなかで、かれらは縦横無尽に振る舞い、わたしたちそれぞれの想像のなかでつど生れなおすものたち。

そして「書かざれしかば生まれざるもの」という、呪文のような下の句によって、

そのあまりにもメタな視点によって、上の句で築き上げられた架空の「王国」の架空性がより煌めくようなつくりになっているのがわかります。

 

実際には存在しない家族を哀れんだり、殺したり、この詩型における〈虚構〉の問題と闘ったかれの、

「書かざれしかば生まれざるもの」という言葉は、語り手の声と一寸の狂いもなしに重なり合って、たくさんの書き手のまなざしと響き合うよう。

 

こうしている間にも、わたしの何処か知らない場所で、誰かが詩の生れる瞬間に立ち会っている。そう思うと、ぞくぞくします。

その「ぞくぞく」に似た楽しさを、この一首から感じたのでした。

 

 

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